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シルクロードのすすめ1 【長安】

xian 西安


西安の街の一角にあるイスラム街「回民坊」。

パキスタンから来た旅人は、
ここでムスリム食を食えることに満足していた。
ポロ、ケバブ(串焼き)などなど。
この先東へ進む彼は、今後ムスリム食に不自由するはずだと言って、
食いだめするかのように掻き込んでいた。
まだ19歳の食べ盛り。
宿で出会ったインド人と自分は、それを見て笑っていた。
パキ人は、どれだけ食っても食い足りないと言う。
「お前まだ食うのか?」というと、
「ムスリムが肉を食うことを笑うなよ」という。
そんなこと突っ込んでるんじゃないだが…
と、インド人と二人でまたまた苦笑。

インド人は、北のモンゴルから西安に来た。
パキスタン人は、自国からウイグルを抜けて西安に。
自分は、東の北京から西安に。
西安は広い中国の真ん中に位置するだけに、
東西南北から人が集まり去っていく。

ムスリムが多いのをその一例として、
西安から、西域の匂いがぷんぷんし始める。
だいたいが羊肉の匂いだが…


この街が最もきらびやかだったのは唐代。
首都・長安は国際都市として栄えた。
華やかかりし様子は、唐詩にも描かれている通り、
朱髭・緑眼のソグド人やペルシア人の商人が街路を往来し、
酒場ではブドウ酒を嘗め、ペルシア娘の踊りを眺めた。
特に7世紀のイスラム勢力によるペルシア世界征服以後、
ササン朝の遺民が長安へ流れてきたことは、
長安でのペルシア・ブームを一層盛り上げた。

当時長安は、西方世界からタブガチュの都クムダーンと呼ばれた。
タブガチュ=拓跋(たくばつ)。
4世紀以来、鮮卑族「拓跋部」が華北に国を建て続けたため、
西方世界にはその名が定着した。

鮮卑は、もと北方の草原で狩猟遊牧をした民で、
チュルク・モンゴル系ともツングース系とも言われる。
はじめ漢の宿敵・匈奴の配下にいたが、
匈奴が衰えるにつれモンゴル高原の支配者となり、
のちには華北に南下し、300年にも渡る一連の拓跋系国家を建てた。
件の唐王朝もその系統に連なるという。

ところで、ユーラシア東西の通商路は、
伝統的に遊牧民が押さえている。
匈奴、突厥、モンゴル、いずれもしかり。
漢の武帝が匈奴打倒に執念を燃やしたのも、
そこに莫大な通商のウマミがあったればこそ。

北方遊牧の流れを汲む唐王朝は、
建国後ほどなくして、北方の大遊牧帝国「突厥」の領土を飲み込む。
その時、唐朝皇帝が遊牧世界の「カガン」(=チンギス・カーンのカーンと同義)
をも兼称することになったが、
そうした芸当がすんなり出来たのも、遊牧民の出身ゆえだろうか。
とにかく唐朝がこうして大版図を築き、特に通商路を押さえたことが、
長安に史上まれなる繁栄をもたらした。

唐の長安ほどの繁栄ぶりは無いが、
今なお西安には、ムスリムの多いことなど、
西方世界への結節点という性格を残している。


さて、自分の旅もこれから西域に入っていく。
そこでは、唐代の長安にも関係した、
イラン系の人々やチュルク・モンゴル系の人々などが、
今後も登場することでしょう。

とはいえ、
まだしばらくは、漢族が多い河西回廊を通って行くので、
詳しくはおいおい述べていくことになるでしょう。



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xian 西安
平たいパンが増えてくる。
この陝西・甘粛省の辺りでは、こういうパンを饃饃(もーもー)と呼ぶらしい。
チベットで餃子をモモと呼ぶのと関係がありそうだ。



xian 西安
羊肉が増えてくる。



xian 西安
名物・牛羊肉泡饃(にゅうやんろう・ぱおもー)泡=ひたした、饃饃=パン。
肉出汁スープにパンをちぎったモノが入っている。



IMGP4332
回民坊の様子。



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