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三蔵法師も訪ねたという高昌故城 [in トゥルパン] ~廃墟マニア~

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広い、広い。ただただ、だだっ広い。
由緒の正しさ、では高昌の方が勝るかもしれないが、
見栄えとしては、交河故城の方が良いと感じた。
こちらはとにかく広すぎてスペースがあり過ぎるのだ。
しかし、周囲を囲む城壁は圧巻!
平遥古城ほどの広さがあるのでは?

いろいろ探検していたら、係りの人がバイクで飛んで来て
「そこは立入禁止だ」と注意された。
柵も何もないのに無茶なこと言うもんだ。
バイクで走ってる方が痛めてる気もするが・・・

廃墟指数 ★★★☆☆ ぐらい、かな。

ここ高昌にまつわる歴史自体は面白いのだけど・・・(後述)



IMGP5619
寺院跡。高昌には多い時には50余の寺院があったという。



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上記の中央の建物。側壁面には仏の画の跡がうっすら残っていた。



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同じく寺院跡にて、ドーム状の建物。これは修築されたものか。



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ロバ引きのおっちゃん。シーズン外のこの時期(2009年11月)は、暇そうだった。



IMGP5646
同じくロバ引きのおっちゃん。



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[メモ]
トゥルパンの人の顔付の多様さについては前にも書いたが、
高昌の歴史を見てみると、イスラム化以前の当地へ
どのような契機で様々な人の集団が流入してきたかが分かる。
以下、高昌の歴史について概略を。


高昌故城は、紀元前1世紀に漢の屯田基地にはじまり、
14世紀初め、戦火に遭い崩壊したという。

漢代の屯田にはじまった高昌には、
漢滅亡後の長い戦乱を避け、漢人たちが移り住んだ。
やがて長い戦乱は五胡十六国時代[北涼]の滅亡をもって一段落を迎えるわけだが、
高昌国は、ほかならぬその[北涼]の王族が逃れ来て、
それまで交河故城を拠点にしていた車師国を滅ぼして建てられた。
なお北涼は匈奴の一支族と見られている。
 
トゥルパンを東端とするタリム盆地周辺の住民は、
10世紀頃までの印欧語系トカラ語を使うアーリア系や
イラン系言語を使うソグド人が主で、
宗教も仏教やゾロアスター教が行われていた、という。
そうした土地にありながら、
高昌では最初の屯田以来、漢人が住み着き、統治していたので、
かなりの程度まで、異なる文化が混在していたようだ。
(ウルムチの博物館にはこの地区から出土した餃子や月餅の化石もあった)

当時を描いた資料には、
「官制は中国風。服飾は男子は胡法により、婦人は中国と同じである。
 文字もまた中国と同じながら、胡書(イラン文字)を兼用する。
 学校では、論語等の書を教授している。
 よく習熟しているが、言語は胡語(トハラ語系?)で読んでいる。
 また当地からは、木綿、毛織物、葡萄、良馬などが献上された。」
  (『周書』異域伝、『梁書』諸夷伝の記述。 長澤和俊『シルクロード』より抜粋)
とある。

高昌国は、柔然、高車、西突厥など北方遊牧民の影響下で栄え、
時には隋、唐へも入貢するという、絶妙なバランス感覚で生き延びた。
三蔵法師・玄奘がインドへの旅の途中ここを訪れたのも、この頃。628年。
当時の高昌は、寺院50余と仏教が栄えていた様子も伝えられる。
玄奘は、高昌国王によって西突厥側に引き継がれることで、
身の安全を保障され、旅を続けることが出来た。

  
高昌国は、西突厥と連合していたため唐が西突厥を攻めた際、640年に滅びる。
唐はここに安西都護府を置き、西域経営の拠点としたが、
ここを通じた交易が、国際都市・長安の繁栄をもたらす。

唐の国力が衰え、西域から退いた後は、
天山ウイグル[回鶻]王国が当地を支配することになる。
9世紀から13世紀までこと。
もとイラン系住民と漢人の混住地帯だった当地は、
この時期、テュルク化が進んだようだ。

ウイグルたちは現地の仏教・マニ教・景教などを受容し、
トハラ語や漢文、チベット文で書かれていた仏典等をウイグル文字に翻訳した。
トゥルファン出土のウイグル文書の大部分は、この天山ウイグル時代のものだという。
なお、この時代、ウイグル文字がソグド文字を借用して作られたが、
これは後、モンゴル文字、満洲文字の基ともなっている。

のち、ウイグルは、チンギズ・ハーンの台頭を見て、イの一番で協力した。
そのため、ウイグル王家はモンゴル帝国内で筆頭家老のような地位に付き、
多くのウイグル人たちが、優れた経済感覚を活かし、帝国の経営を担った。

しかし、クビライが帝位に就き大元と改めたころ、モンゴル帝国は分裂混乱を迎える。
特に中央アジアではチャガタイ・ハン国が独立し、元朝の領土を攻めた。
高昌は、元と対立するこれらの勢力により奪われ、崩壊する。
ウイグル王家は多くの部衆を連れて元朝内の甘粛・永昌へと遷った[1283年]。
 
現在のウイグル人は、回鶻(ウイグル)帝国から名を受けている。
とはいえ、両者の間に直接的な連続性を見出すのは微妙か。



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トゥルパンのバザール ~街角スナップ~

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この街に入り、一気に道行く人の顔付や衣装が変わった。
おじちゃんは革ジャンにイスラム帽や鳥打帽、
おばちゃんは頭に被りものをし、革のブーツが多い。
若い子らのファッションも中華世界のものとは違ってきた。
革ジャケットを来ている人を多く見かけ、
女の子はそれぞれ頭に色トリドリなスカーフを巻いている。
そこかしこから流れてくる音楽も「西域的」だ。

生活をのぞき見るなら、市場へ行こう。
ってことで、バザールの写真です。




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じゅうたん屋が客を追う眼。



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焼きたてサモサに人が群がる。



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カワップ(串焼き)にも群がる。



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革ジャン。



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へい、らっしゃい。



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そろそろ新しい帽子にするかの。



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ふん、公安が肉を買っているわい。



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こいつはまだイケルな、よし。



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あんたちょっと待ってなさいってば。



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あら、奥さん。



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いくらだい?



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ぱーん、ぱーん、ぱーん



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[写真]
1,2,4,5,6,10,11,12枚目 PENTAX K20D + PENTAX-FA 31mm F1.8AL Limited
その他  RICOH GRDⅢ にて

交河故城 [in トルファン] ~廃墟マニア~

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街の原型が見て取れる都市型廃墟。
建物は土を掘ったり、土を重ねて作られている。

大道跡、寺院跡、宮殿跡、家屋の跡、などが、
それと判別できる形で残っているし、
広いなかに客がほとんどいないので、歩いていて楽しい。


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中心大道のあと。ちょこっと舗装されている。が、今のところ手が加わっているのはこの程度。
世界遺産登録されたら、だいぶ変わるのだろうか。


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旧市を展望。“街だった”ことが良く分かってワクワクする。


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「交河」という名の通り、河の中州の崖状に切り立った台地の上に街が造られた。


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大仏寺の跡。これがまた広いんです。
広さを伝えるため写真に人も入れたかったが、誰もいなかった。


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仏塔跡。



解説によると、
中国内で唯一、まとまって残っている漢代の都市遺跡という触れ込み。
また、前漢時代のBC2世紀に車師前国の都として建てられ、
街自体は14世紀まで続いたという。
ん?
「まとまって残る漢代の都市」ということと、
「14世紀まで続いた」って、矛盾しないのか?
14世紀までずっと漢代の姿を保ったっていうのか?


とはいえ、

廃墟指数 ★★★★★

廃墟的には大満足でした。



アクセスは市街から自転車で。
ゆっくりこいで1時間も掛からないほど。10km弱。



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シルクロードのすすめ2 [テュルク/トルコ人]下

「トルコ人」と言うと、こんなイメージでしょうか?
 ↓

アリニール・セルカン



もしくはこんな、
 ↓

イルハン



最初の写真は、先日東京大学をクビになったアニリール・セルカン氏
二番目のは、トルコ代表サッカー選手イルハンですね。



「トルコ人」というと、いわずもがなトルコ共和国の国民のことです。
総人口7400万人中、トルコ語が母語の人口は6000万人と言われます。

ところで、
このトルコ語(Turkish language)を含む言語グループとしての
テュルク諸語(Turkic languages)を話す人口は、ざっと1億5千万人ほどいます。
このテュルク諸語を話す人たちの分布を見てみると、



 ↓テュルク諸語の分布地図
Turkic_language_map3



ご覧の通り、ユーラシア大陸に広く分布していることが分かります。
東はロシア内のサハや中国内のウイグルから
西はアナトリアのトルコ、欧州のブルガリアなど。

このテュルク諸語はアルタイ諸語というグループに属するとされます。
つまりチュルク諸語、モンゴル語、ツングース語(満洲語等)を含むグループ。
日本語や朝鮮語も学者によっては含んだり含まなかったりしますが、
チュルク諸語と日本語とは、共通の語彙こそほぼ無いものの、
語順及び「てにをは」で文章を組み立てる構造など、文法的にはそっくりです。



 ↓アルタイ語の分布地図
Altaic_family



さて、テュルクの歴史の話。
テュルク諸語を話す集団の起源は、モンゴル高原だと言われます。
遠い遠い昔、モンゴル高原に住んでいた遊牧を生業とする集団は、
世界史の教科書なんかでは「テュルク・モンゴル系」と呼ばれています。
「テュルク・モンゴル系」って、何だかアンニュイな言い方ですが、
モンゴル語がはっきりと確立されるのは13世紀頃のことで、
それ以前については両者を厳密には分化できないようです。

ところで、その「テュルク」を指すと思しき集団は、
両者がはっきりと分化出来る以前から史料に登場します。
漢語資料で、紀元前に現われた「丁零」をさきがけとしますが、
その後に現われた「鉄勅」「突厥」など、
いずれも「テュルク(Turk)」を音訳したものです。
ちなみに唐末の漢語では、
[突厥]を [t'uer kuer]、
[鉄勒」を [t'er lek]
という風に発音したと言います(藤堂明保)。


 
このテュルク系民族が長い歴史のなかで、
西へ西へと移動し、国を建てるということを繰り返し、
現在のトルコやブルガリアにまで至ったわけです。
テュルク系民族が西へ移動したルートですが、ざっくり大別すると二つありました。
シルクロードのステップ路とオアシス路です。

シルクロードは、カスピ海及び黒海の北のステップ路と、
その南方の乾燥沙漠地帯に点々と連なるオアシス路がありますが、
テュルク語を話す集団もこの二つのルートを通って移動しました。

北ルートを行ったテュルクでは、ブルガール人があります。
現在ロシア内のタタルスタン共和国のタタール人や
東欧のブルガリアのブルガリア人の基となった集団です。
それ以外にも、ヨーロッパで大暴れしたフン族は、
漢文の匈奴(テュルク・モンゴル系)と同一との説もあります。
ちなみにハンガリーのマジャール人はフン族の末裔を自称してもいます。
また「匈奴」は中国の古音で [Hun na]と発音したとの説があります。

いずれにしても、フン族やブルガール人がヨーロッパに現われたのは、
それぞれ4世紀、7世紀とだいぶ古い話です。
ステップ路はかなり古い時代から、
遊牧民たちが西へと移動する主要ルートであり、最短距離だったのでしょう。

一方、オアシス路はというと、
テュルクがこちらへ進出したのはもっと後の時代です。
もともとオアシス路が通っている辺りは、
ペルシア世界とも言うべき土地であり、ペルシア語系の人々が住む地でした。
特に、シル川とアム川に挟まれたオアシス地帯を指して、
ペルシア語ではソグディアナ、トゥラン、
アラビア語ではマーワラーアンナフル(川の向こう側の土地)、などと呼びますが、
ソグディアナとは、文字通りペルシア語系のソグド人の土地のことです。

この一帯は、ササン朝の時代まではペルシア世界に属していましたし、
アラブ・イスラムによる征服後、久々に興ったイラン系国家のサーマーン朝も
現ウズベキスタンのブハラに都を置き、ソグディアナを支配しました。



 ※以下、領土が小さい方がサーマーン朝、大きい方がササン朝の地図です。

 ↓サーマーン朝(873-999年)の領域。       ↓ササン朝(226-651年)の領域。
Samanid_dynasty_(819–999) Sassanid-empire-610CE



テュルク勢力は、AD1000年くらいを境にして、ペルシア世界に続々と進出します。
その後、数百年を掛けてイスタンブールまで至ります。
ペルシアの大詩人フェルドウスィーが 「シャー・ナーメ=王書」で
イラン(善玉)×トゥラン(悪玉、アム河の向こう側)の角逐を描いたのもAD1000年頃のことです。
それから1000年に渡るオアシス世界の歴史は、
ペルシア世界がテュルク勢力によって新たな色を塗られていく過程だったと言えます。

現在、ペルシア語圏としてはイランの他、アフガニスタン、タジキスタンが残ります。
一方、テュルクの土地ということで、中国内新疆ウイグルを [東トルキスタン]、
旧ソ連圏の中央アジアの大部分を [西トルキスタン]とも呼びます。
このテュルクの土地=トルキスタンに、
現在どれほどペルシアの影響が見られるか?ということも興味を引く問題です。



長くなりましたが、今回の旅で自分が通ってゆくのは、
シルクロードの2番目に挙げたオアシス路です。
東から西に行くにしたがって、人間がどのように変わって行くか?
このテュルクと呼ばれる人たちを追いながら、見て行きたいと思います。 
東から西へ徐々に移動していく中で、
顔付、言葉、食べ物、風習など、どんな風に変わっていくか?楽しみです。



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過去記事はコチラへ
 ↓
・シルクロードのすすめ2 [トルコ人の話] 上
・シルクロードのすすめ1 [長安]

シルクロードのすすめ2 [トルコ人の話]上

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ついに来た!新疆へ。
7年前、北京を歩いている時に、トルコ人を辿る旅はどうか?と思い至ってから、
今まで。やっと来た!
トルファンまでのバスの中で、そのことを思い、目頭が熱くなった。


と、
トゥルパンに着いて早々に、こんなことを日記に書きなぐっていた自分ですが、
新疆ウイグルは、行く前からして思い入れが強い場所でした。

ユーラシア大陸を横断をしようと考えたきっかけは、
幼い時に育ったイギリスと日本の間を繋げてみたい、ということでした。
自分の若い頃の人生は、この二つの国の狭間で揉まれていました。
二つの国のギャップに驚いたり悩んだり、
どっちか一方を時には持ち上げたり、時には否定してみたり、
色々とバランスを取るために試みましたが、なかなかバランスが取れなかったのです。
 
大きなギャップを何かで埋める必要があると考えた自分は、
文字通り二つの国の「間」を、くまなく歩いてみたいと思うようになりました。
それまで飛行機でひとっ飛びしていたユーラシア大陸の端を端を、
時間を掛けて、物理的に両国の間を繋いでみることで、
何かが埋まるんじゃないかな、と思ったのです。

そんな風に考えたのは、7年前に初めて中国を訪れたことがきっかけでした。
それまで、イギリスからの視点、日本からの視点、もしくは両者の比較、
という狭い考え方しか持っていなかった自分ですが、
中国を訪れて、そのどちらでも無い全く異なる世界があることに気付きました。
中国は、日本や英国と全く異なる強烈な個性と存在感を持っています。
違うものは違うんだ、と突き放し、
違いを楽しみながら、その間を泳いでみるのも面白いかな、と思ったのです。
 
7年前初めて行った中国。心底から惚れました。
と同時に、初の中国滞在中に感慨深く思ったことがあります。
“この大陸をずっと行けばヨーロッパまで続いている”という、極々当たり前のことです。

  
さて、ここからは実際のユーラシア大陸ですが、
地図を眺めてみると、広い地域にトルコ人達が住んでいることに気付きます。
大陸を東から西へ行くことは、トルコ人の足跡を辿ることにもなります。
東西に広く分布しているトルコ人の足跡を追ってみることは、
人間の顔付や言葉などの文化の移り変わりを確認することになります。
また、トルコ語は、
日本語もその一派じゃないかと議論されるアルタイ諸語に属しますが、
日本という問題、特に日本人の起源などについて考えるためにも
とても興味深い地域だと思ったのです。
 
とはいえ、
そんなことを思い付いてから実行するまで、7年。
今回の旅でもウイグルへ辿り着くまで、だいぶ廻り道をしてしまいました。
それだけに最初のスタート地点に着いただけで、感無量でした。

ここまで書いた所で、「トルコ人」について説明が必要かもしれません。
次回は、さくっとトルコ人について紹介します。



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前記事はコチラ
 ↓
・シルクロードのすすめ1 【長安】

漢語封印 [トルファン/吐魯番]

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『民族分裂主義に反対する旗幟を鮮明にせよ』、とのスローガン。
トゥルパン・バスターミナルにて。



新疆ウイグルに入る前、知り合いの漢人たちから、
危険だ、危険だ、と散々引き止められた。

僕が新疆ウイグル自治区のトゥルパンに着いたのが2009年11月。
その年7月5日に省都ウルムチで、
死傷者2000名あまりの騒乱が起きたばかりだったためだ。(詳細はこちら

漢人は自分の身近なこと以外を恐れる傾向があるから、
“大げさだなあ”、と思いつつも、いつしかその空気に染まり、
新疆に入る頃には、相当身構えていた。
そこで、
漢族と思われないにはどうすれば良いか?と防御策を考えた。

髭でも伸ばすか。
 (いや、髭のある漢人だっているか・・・)
イスラム帽でもかぶるか。
 (いや、ウイグル語が喋れなければ回族どまりだな・・・)
ならばってことで、漢語を封印することにしてみた。

トゥルパン1日目、
食堂で串焼き3本頼む時に、
串焼きを指差し日本語で「これこれ」なんて言い、指を3本突き立てた。
何とか通じた。
でも、
息苦しかった。
言葉を抑えるってことは息苦しいことなのだ。
会話が広がりそうなチャンスでさえ、抑えなきゃいけない。
いろんな人と絡んで、話をして、ということを
旅のモットーにしてるだけに、なおさら辛かった。

7月の事件の影響はというと、
どこのネット屋でも通信が遮断され、国際電話も使えないこと。
また、街の至るところで、中共によるスローガンを見かけること。
それから、ガイドに聞いたのは、日本人の旅行者はめっきり減ったこと。
少なくともここトゥルパンでは、さほど緊迫した空気は感じなかった。

2日目、
街の郊外にある遺跡に自転車で出かけた。
帰途、道端で自転車のチェーンが外れ、子供達が困っていた。
自転車を上下引っくり返して、チェーンをはめ直してあげると、
笑顔で“謝謝(シエシエ)”と感謝された。

(なんだ、あんまり気張る必要は無いのかな)

なんだか清清しい気分になって自転車をこいで街へ帰った。 


後日、
ウイグル人と話したときのこと。7月の事件について、
「人民共和国60年の長い歴史の中で、あれほど大きなのは初だ。
 逆に言えば、60年で大きなものは一度しか起きていないのだ。
 あれは例外的な事件なのだ。」
と言った人がいた。
その言葉が本音か建前かなんて分からないにしても、
早く平常な状態に戻って欲しいという気持ちは伝わってきた。

ウイグル人がどう考えてるのか?もっと知りたい。
漢語封印してる場合じゃないと思った。


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スローガン「分裂動乱はこれ禍なり 団結穏定はこれ福なり」。中学校の正門にて。


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自転車を直してやったら、「シエシエ!」と言われた。



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敦煌の隋さん

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敦煌の名物オヤジ隋さん。
“敦煌で日本人向けの商売を始めたのは私が最初だヨ”と豪語する。
もともと食堂兼旅行会社をやっていたが、
今は友人の店を拠点にしながら、旅行会社としてだけ活動している。

僕も滞在二日目の朝、宿を出がけに捕まった。
それから1週間ほど、毎日朝からビールを二人で呑みまくった。
隋さんは痛風が心配だ、などと言いながら良く呑む。
11月の敦煌はもう寒い。旅行者も少ない。
旅行者を、それも日本人を相手に商売している隋さんはヒマそうだった。
僕も酒は嫌いではないし、話題豊富な隋さんの話が面白いので、
毎日のように一緒にビール瓶を空けた。

前記した玉門関石包城のツアーは隋さんに頼んだもの。
隋さんは日本人向けガイドの第一人者を自認しているだけあって、
新しい観光資源、新しいツアーを開発しようと取組んでいる。
次回訪れた時にはどんなツアーがあるか楽しみでもある。

とはいえ、敦煌ではほぼ毎日だらだらと過ごした。
寒い日には、今日は寒いから呑みましょうか、と朝から呑んだり、
風の強い日には、今日は外出ると危険だから呑みましょうか、と朝から呑んだり、
飲んべえ同士、要りもしない理由をつけては呑んだいた。

食堂を経営していただけに隋さんの料理は美味しい。
二度ほど、市場で肉を買い酒を買って、隋さん宅でご馳走になった。
料理を手伝った時、野菜を洗っていると、
“もっとちゃんと洗わなきゃ駄目ヨ。中国の農薬は強いだからね。”
と料理人隋さんに怒られた。
でも、その時の羊肉は最高にうまかった。

みなさんも敦煌に行かれたら、会ってみては如何でしょう?
ま、向こうから捕まえにくると思いますが・・・

隋小礼氏のHP
www.china-world.info/dunhuang/


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こんな羊を食べに行ったり、

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こんな羊を料理してくれたり。呑んでばかりでした。


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廃墟マニア[石包城・敦煌]

2010.10.21 ・城マニア
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[祁連山を抜ける途中で]



目指す城は350km先。
敦煌を8:30に出発した車は、祁連山を右手に眺めながら進む。
道中、ガイドの隋さんの解説を聞く。

祁連山脈は長さ1000km、幅数百~30kmほど。
山脈に沿って40kmごとに湧水地=オアシスがあるという。
また、烽火台も同じ位の間隔で建っている。その多くは元代のもの。
いかにモンゴル帝国が駅伝制度を大事にしていたかが分かる。
しかし、元代の遺構は観光資料としては重要ではないらしく、
敦煌周辺でも五台ほどまとめて撤去されたと聞いた。
漢代のものが、中国人の観光客も呼ぶ。

道中しばし車を停め、祁連山の谷へ踏み込んでみる。
動物の糞が点々と見える。うさぎ、らくだ、狼のもの。
狼のものには、大きな骨が残っていた。
やっと陽が昇ってきた時間だったので、まだ危険か?と、
早々に切り上げて車に引き返す。

瓜州(=安西県)を抜け、車は右折。祁連山へ分け入る。
道は長い長い谷を通って行く。
谷は風の通り道。とはいえガスが溜まっている。
野生のラクダが群れを作っている。
野生のラクダは、足が大きく、口が細長い。

周囲は淡い色の牧草が点々と密集して生えている。
寒草(hancao)という。
敦煌の羊はこの寒草を食うから、うまい肉になると言う。
きょう通ってきた辺りには、野生の羊が多く、
黄羊、紅羊、青羊、槃羊、等がいるとの話。

しばらく行くと岩山が始まり、緩やかな登り。農村も多い。
政府はいっぺん畑化した土地を牧地に戻そうと奨励しているのだと言う。
実際、牧民はなかなかの金持ちだと言う。
1000頭ほど飼っているのが多い。1頭500元からで売れる。

渓流の谷、箱柳という木が黄葉していた。
この一週間あまりの内に葉がだいぶ散ってしまったという。
見晴らしの良い場所で休憩。しばし景色を楽しむ。
その山を越えると盆地。
しだいに盆地の中に、小高い岩山が二個ほど見えて来る。
左の山の頂上辺りが、陽を受けて白く反射している。城だ。

村を抜ける。
ここらの看板は二文字併記。モンゴル人が多い地区だ。

石包城。
ここは鎖陽城、楽古城と3つ合わせて、
三角形の防御線を張る。相互に70km程隔たる。
西域が不安定だった後漢の頃の創建との話。
山の上の城は、廃墟感たっぷり。
しかし、ゆがんだ正方形の城の
8つ程あったと思われる隅やぐらは円形を保っている。
石積みの本郭の周りに濠、物資の輸送路でもあったのか?
中は、周辺の遊牧民が酒盛りした跡。酒瓶の破片が散らばっている。
チベット仏教式(モンゴル人が多いからそうなのだろう)に、
積石、カタをかけた祭祀用の場所があった。

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[石包城の上から。あたりは荒地。遠くに山が見える。]


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[石積みの城。堀が巡らされている。]


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[城の内部]


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[崩れた石が積みなおされ祭壇になっている。チベット式。]


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[背後から。一定の間隔で塔が建っている。]


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[石垣がキレイに残っている。]


城の中を散策している時、
ドライバーのカさんが、青銅で出来たモノを拾ってきた。
城の北側が保存状態が良いが、逆光。
洞窟には、骸骨も。


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[青銅器のカケラ。矛の先か。]

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[骸骨]



石包城を見終えた後、
車は野生のラクダと挨拶してから、
盆地を高くから望む山へと登る。
モンゴル人のゲルが遠くに見える。
馬で移動中の女性と遭遇。買い物にでも行くのだろう。


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[野生のラクダ。]


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[土煙を立てて、馬に乗ったモンゴル人は行ってしまった。]



楡林窟へ。
8ヶ窟ほど案内人のサーチライトで照らしながら見て周る。
瓜州=安西市の南75km。
唐・五代・宋・西夏・ウイグル・元・清時代に造られた43窟からなる。
計4200㎡の壁画及び250体の色彩塑像を持つ。
以下メモ。
・張義潮とそのウイグル人の奥さんの画。その息子の画も。
・敦煌で一番キレイと言われる飛天の画。
・壁画は唐代、五代のものが多い。唐代のものは、一つ一つ見事。
 清代のものはヘタクソなものばかり。
 塑像はほぼすべて清代のもの。
 一つ清代の壁画を見た。コミカル、道教に題を取ったもの。
 同床異夢の夫婦の絵、元朝と戦う「朱」の旗を掲げる明朝の軍勢。
 全体的にヘタくそな絵。道士たちがにこやかにそこかしこに飛んでいたりする。
 全体的に新しいので金箔もよく輝いていた。
・主洞の大仏は大きい。24.7m


IMGP5208
[楡林窟]


IMGP5220
[楡林窟]


帰路、瓜州でメロンを食べる。
「瓜州」というだけあって、スイカやメロンが豊富なようだ。
しかし季節外れで甘くない。干しメロンがおいしかったので一袋購入。

最後、元代のものというのろし台+兵舎のあるところで写真を撮った。
兵舎は長いこと、周囲の遊牧民が使っていたとのこと。
おおきな番犬がいる、と脅されながら入ったが、もぬけの殻だった。



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[メロンがいっぱい瓜州]


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[幹線道路沿いにそびえる、元代の烽火台。]


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[烽火台の前には兵舎が。]


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[敦煌へと帰る道。]




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井上靖「敦煌」と莫高窟

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[元代の石窟・レプリカ]

莫高窟の入場券にはガイド料が込まれている。
シーズンオフなので、中国人80元、外人100元(シーズン中は160元)。
最初80元の切符を渡された。安いのでラッキーと思ったが、
中国語で難しい解説を聞いても理解する自信が無かったので、
しっかりアピールした。ワタクシ外人アルヨー

日本語ガイドが付くことになったものの、
ちょうど日本語ガイドが昼休み中で、待つこと1時間。
さっそうと、王家衛の映画「恋する惑星」に出てくる謎の金髪女のように
現われたのはガイドの李さん(仮)。
大き目のサングラスにロングコート、
ボリュームのあるパーマという出で立ち。
サングラスを取った李さんは(美人だった!)

重慶森林
▲こんな感じ。金髪じゃなかったけど。美人でしょ?


李さんのガイドで、計9つの窟を見て周ることとなった。
敦煌の石窟群は広いので、どこの窟を見るかはガイド任せになる。
ツアー客の中には担当のガイドさんから離れ、
他のグループのガイドさんに頼んで、お目当ての石窟を見ている者もいたが。
僕の場合、特に目当ての石窟があった訳ではない。
小説『敦煌』を読んで、ここに来たいと思っただけだったし。

ということで、
石窟のチョイスはガイドの李さんに全部お任せした。


 
井上靖の『敦煌』は、
都・開封の市場で売られていた西域の女を命を助けたことをきっかけに
西域に興味を持り、西夏へ向かうところから始まる。
敦煌周辺を舞台にした西夏と宋の抗争を軸にして物語は進むが、
ひょんなことから西夏の漢人部隊に編入された主人公、
西夏が王族を滅ぼした時、主人公が命を助けた王女、
于闐(現ホータン)の旧王族出身のキャラバン隊長、
そして颯爽たる西夏王など、
民族の「色」という点では、これほど色取り取りで、
きらびやかな極彩色を放っている作品も少ない。

僕自身も莫高窟に対しては、
この色トリドリな民族色を感じられたら良いな、と漠然とした興味だった。

確かに莫高窟には、
シルクロードに関わった諸民族の痕跡がかなり残っている。
ためしに、ここで発見された文書の各諸文字を列記してみると、

ウイグル文字 (回鶻文)
チベット文字 (古蔵文)
サンスクリット文字 (梵文)
ヘブライ文字 (希伯莱文猶太教)
ウテン文字 (于闐文)
ソグド文字 (粟特文)
西夏文字
モンゴル文字 などなど・・・

また、ガイドの李さんチョイスで見た石窟に
吐蕃の画があり、衣装や吐蕃王などが描かれているものも(237窟)。
隋代の石窟内の仏の衣装が、
遊牧民の着る胡服のようなデザインだったことも興味をそそった(244窟)。
それに、附設の博物館ではササン朝期のペルシア銀貨を見ることも出来たし。

こうして、シルクロード上の東西南北の交渉や遊牧民の影響など、
所々に見て取ることができ、面白いかった。
そもそも河西回廊の先っぽに位置する敦煌は、
中華世界の最前線であるとともに、他民族に囲まれた土地である。
シルクロードという通商上の要衝でもある敦煌は、
当然、様々な勢力によって奪い合いの対象となった。
その中にあって、仏を奉るという一点において、
どの言葉を使う民族も莫高窟を大切にした、というのが面白かった。
敦煌の主は変わっても、莫高窟の価値は変わらなかったのだろう。



さて、ガイドの李さんの石窟チョイスはなかなか良く、
解説もしっかりしていて交感が持てた。(というか美人だし。)
以下、今回巡った石窟を簡単に紹介。

■94窟 太上老君の像アリ。仏教と道教の混合が見られる。

■96窟 莫高窟の正面にあたり、九層の大仏殿を持つ。
    ここに奉られてる弥勒大仏の高さは35.5m。
    仏像の大きさとしては世界No3!
    No1は四川の楽山72m、No2は同じく四川の栄県大仏の37mという。
    唐を中断させた則天武后が即位すると、
   女帝は仏教を重んじるともに、自ら弥勒菩薩の生まれ変わりと称した。
    そのため、当時、弥勒菩薩建立ブームが起こった。
    今でも毎年4月に敦煌の人が祈願に集まるという。

■130窟 ここも弥勒仏。莫高窟で2番目に大きい26m。

■148窟 涅槃仏15m。背後には仏弟子72人。
    壁画は、涅槃前後の釈迦ムニの物語が描かれている。

■237窟 特徴的な石窟。 
    まず天井には、
    三耳ウサギが三羽 絡み合ったデザインが描かれている。
    他の窟には龍や鳳凰ばかり描かれているのとは対照的。
    また、現在敦煌のシンボルになっている「反弾琵琶」の飛天
    (=背中で琵琶を弾く天女)の画が見れるのもここ。
    さらに、壁には前述の吐蕃を描いたものがあり、
    当時の吐蕃の衣装や王の様子が見える。

■244窟 隋代のまま残っている窟。
    過去、現在、未来の三世仏の像が左、正面、右と並ぶ。
    仏は胡服をまとっているのが印象的。隋はやはり北方的だったか。
    小さい飛天が、ドーム状の天井と壁面の継ぎ目に描かれている。
    「飛天は実は地位が低いのです」との解説が微笑ましい。

■324窟 窟に入ると、つい立が目立つ。
    米人ワーナーのはぎとった「船」の絵の部分のこと。
    ひどい切り取り方をするものだ。
    壁画の一部のみが切り取られていて、
    その部分のレプリカ画が、つい立に描かれている。
    壁画には色々な物語が描かれている。
    ・張騫の物語:由来を知らない二つの金仏を発見した。
     名前を知るため、帝の命により西域へと赴くという物語。
    ・アショカ王が仏塔を国中に建てた物語。
    ・仏の服を人々が祀った。
     それを剥ぎ取った人が雷神のバチに当たると言う物語。

■16,17窟 この隠れ窟が1900年5月26日に発見され、莫高窟を一躍有名にした。
     なぜ隠されていたかは謎で、世界中の学者・作家が諸説立てている。
     井上靖『敦煌』もその一つ。
     英仏日露米5ヶ国が、古文書等5万点中4万点を持ち去ったとの解説。
     ゴメンナサイと一言。


一通り巡り終わって、ガイドの李さんとちょっとした世間話をした。
近くの嘉峪関出身で、ガイド歴は10年という。
日本語のガイド歴はまだ半年だというのに驚いた。
そのわりには、流暢な日本語をしゃべる。(ていうか美人だし。)


ガイドの李さんと別れてから、附設の博物館へ向かった。
ここで驚くべき発見が!

「番漢合時掌中珠」

という小さな書物を発見したのだ。


これは、漢語と西夏語を対称した簡単な辞書で、
実用的な携帯サイズで作られている。(今で言えば旅行会話集のようなものか)
なにが驚きかって、
小説『敦煌』では、主人公の趙行徳が
この「番漢合時掌中珠」という辞書を書いたことになってるのだ。
架空の書だとばかり思っていたものが、
目の前にあったのだ。



R0013157
石窟内の塑像の様子。
石窟内の撮影は禁じられているので一番上の写真同様、レプリカですが。


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九層の大仏殿(96窟)


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石窟はキレイに整備され、桟橋がかかる。


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こ、これは・・・


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秋ですね。


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1,3 RICOH GRDⅢ
4-7 PENTAX K20D + PENTAX-DA★ 16-50mm F2.8

万里の長城がそろそろ本当に尽きるところ

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[玉門関]




万里長城が尽きる西の果て。
荒涼としているのは土地柄だが、
漠々というには少々賑やかに過ぎるか。

明代の長城は嘉峪関辺りで尽きるが、
漢代の長城はここまで伸びている。
漢の西域へ伸張しようとする意思が、
朽ち欠けながらも残っている。

ここらを訪れる観光客も多いのだろう。
各地ともきちんと整備されている。
ただし、大観光地で見るような、
旗と拡声器に率いられた喚声集団には、会わなかった。
この辺の名所では中国人も
何かを味わうようにしみじみ眺めてる。

時間の距離を確かめるしかないのだ。
こういう場所では。
いや、中国朋友達はツマラナサのあまり、
呆然としていただけかも知れないが。




■ 河倉城
 漢代、シルクロード北道上に建てられた重要な兵糧倉。
 文字通り河のほとりに建つが、疏勒河は既に涸れ沼になっている。
 とにかく巨大。すごいオーラの廃墟感。
 ラピュタの巨人兵のような存在感。

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IMGP4884



■ 玉門関 
 石造りの門に二千年の風紋がついている。
 2000年以上に渡って、この地の砂塵が関所の建物に刻んできた襞が、
 無数の影を作ってきれい。
 李白の『子夜呉歌』という詩が好きで、ここを訪れたかった。

 玉門関は、沙漠の中、
 すでに涸れた疏勒河のちかくにポツンと立っている。
 2000年だ。
 大した見所ではない。が、訪れている人々は、
 河を眺めたり、沼に変わり果てた河へ降りたり。
 各々長い時間を過ごしていた。
 皆、心の中で時間を噛みしめていたのだろう。

 上流にダムを造ったため、今は沼になっている河へ降りてみた。
 一面のススキの群れの中、ところどころに水が溜まっている。
 寒さのため、所々が凍っている。
 砂のある辺りは日の照り返しがあって日中暑い。

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河のほとりで

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玉門関のアップ



■ 漢長城
 玉門の北、長城及び烽火台が残る。
 泥土と藁(で織った布状のもの)を幾重と重ねて壁を作っている。
 朽ちているとはいえ、はっきり壁と分かる姿で立っている。
 100m以上に渡って城壁とはっきり分かるそれは続き、
 一個の烽火台で終わる。
 その後ろは、盛り土が確認できるのみ。
 ここは漢代の長城の他の部分に比べて風が通らないのだろうか?

IMGP5020
漢代の長城




[メモ]
・タクシーチャーター260元(敦煌の隋さん)
・門票…3箇所共通券40元


「万里の長城が最初に尽きるところ」は→コチラ



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鳴沙山をななめ見て [敦煌]

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鳴沙山。
文字通り、砂漠の山で、その砂は細かいので鳴く。
敦煌市街の南郊に、この鳴沙山への入口があり、
そこから入場すると、ラクダに乗って砂漠を巡ったり、
三日月形の月牙泉という泉を見ることが出来る。

実はこの月牙泉、文化大革命の時に埋められ、
今のは水道水を引いていると、地元の人に聞いた。
興醒めし、入場料120元には見合わないと判断した。

そもそも、この鳴沙山は東西40kmと長いので、
決められた玄関から入る必要もない。

ってことで、
鳴沙山の正面入口から西方に回ってみた。
ここは農村が広がる。
この辺りの農村では綿の栽培が多いようだ。
そこかしこでラクダが飼いつながれている。
やはりラクダは生活に必要なのだろうか。
また、大きく立派な白菜をトラックに積んでいるのも見た。
白菜は今が旬なようだ。
農村は秋、紅色や黄色の木々に囲まれ、
散歩するのに気持ち良かった。
むしろ、得した気分。

また後日、
遠出をした時、車窓から鳴沙山を望んだ。
鳴沙山は遠くから眺めるのが良いと思った。
砂が風に舞い、斜陽を背に受けた姿は忘れまい。
カメラでとっても捉えられる風景ではない、と思って
眺めるだけで過ごした。




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鳴沙山近くの農家。


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ラクダ。これは鞍が付いてるので観光客用かな?
敦煌周辺には野生のラクダも沢山見える。


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綿花の栽培が盛んな様子。


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黄葉。


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(GRDⅢにて)


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敦煌八景 ~街角写真~

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表通りから一本裏に入ると、古い町並みがまだ残っている。



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表通りは小奇麗な感じに整備されていく。



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飛天=天如は、敦煌のシンボル。
琵琶の逆さ弾きポーズは漢語で“反弾琵琶”という。


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街角の将棋。 群がる見物客が負けてる方にアドバイスする。



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沙州市場で羊肉を食う。
市場の食堂には回族の店が多い。また客もモンゴル族やカザフ族など多様。
敦煌周辺には淡い色の牧草が点々と生えている。
寒草(Hancao)と呼ぶ。
敦煌の羊はこの寒草を食うから、うまい肉になる。



R0013151
大肉=豚肉を買う。
漢民族は肉を食らうに豚肉を以って主とする。



R0013171
敦煌ラーメン。平たい麺と具が別々に盛られる。
このスタイルの麺を拌麺(ばんみぇん)と呼ぶが、この辺りから増えてくる。



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現在の街は清代以降のもの。党河の対岸に旧市の城壁が残る。



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写真:GRDⅢ(3枚目のみ PENTAX K20D + PENTAX-FA 31mm F1.8AL Limited)

移動の風景 [酒泉~敦煌]

R0013037



酒泉の街の中心にある鐘鼓楼には、
「南望祁連」「東迎華嶽」「北通沙漠」「西達伊吾」とある。
いかにも酒泉の位置をよく表わした四語だ。
南北を祁連山、沙漠に限られた細い回廊上にある酒泉は、
東方に中華世界を仰ぎ、西方ウイグルの伊吾へと達する。

これから、西域へと向かう自分は、
敦煌が中華世界の最後になるだろう。

酒泉発、敦煌行きのバスは12:50発のはずが、
座席が足りなかった人がもめて下車するトラブルで少し遅れた。13:10発。
どうも客にチケットを売り過ぎたようで、
もともと、席番号指定の正規チケットを持っていた人が
座れない状況になった。
とはいえ、その座れなかった人も
「昼飯食ってた」という理由で遅刻してきたのだが。
自己都合の遅刻に自己主張をかぶせて大騒ぎ。ごくろうなこった。

バスは沙漠の中を進む。南の窓側席。
車中、隣の19歳位の青年が、いきなり引き付けを起こした。
白目をむいた狼のような表情で、ぴくぴく全身を震わせ、
腕を棒のように伸ばしながら傾いてきた。
こちらは眠っていた最中だっただけに驚いた。
ポンと肩をたたくと、彼はまた眠りに落ちた。
でかい青年だった。

16:00 瓜州にて15分ほど休憩。
ちょうど井上靖『敦煌』の瓜州のところを読んでいたので、
心中、沸き立つものがあったが、町自体は退屈そうなただの町。

17:20 敦煌着。

敦煌。
汽車站向かいの飛天賓館にチェックイン後、
少し散歩をしてみた。

敦煌の市街は、大幅に改装中のようだ。
ラサの新市街やベトナムとの国境の河口市街を思わせる。

中国の辺境の街には何かしら、共通するものがある。
新築の建物が多いのはもちろん、
ほぼ全てが華洋折衷様式の造りをしている。
また、並んでいる商店もどこか似ている。
飲食店のバリエーションもそうだけど、
北京など古い街ではさほど見かけない新型スーパー、
土産物屋や酒屋などの店の造りもよく似ている。
生活感が無い。外から来る人向けの商店が多いのだ。
風情のカケラもありゃしない、なんて思っていたら、
「敦煌風情街」と名付く一角があり、苦笑い。

敦煌。
この街をいつから知っていたかは覚えてない。
でも、ずっと昔から旅情をそそる街だった。
それが、いざ来てみるとガッカリしてる自分がいる。
まだ表面しか見ていないのに。



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酒泉の汽車站=バスターミナル。


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敦煌風情城。



(RICOH GRDⅢ にて)



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万里の長城が“最初に”尽きるところ [嘉峪関]

2010.10.14 ・城マニア
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東の山海関から始まる万里の長城は、
西の果て嘉峪関で尽きる。
とは、よく聞く話ながら、これは明代の長城の話。

明朝は、元朝モンゴルという異民族を追いやって建国されたが、
レンガ造りでガチガチに固められた長城からは、
モンゴルもう来るな、という強い意志の表れが見てとれる。
実際、明朝はずっとモンゴルの侵入に悩まされ続け、
レンガに増強した効果のほどは、いまいち不明なのだが。

いずれにしても、
形をよく保った明代長城の一大サンプルがここにある。
嘉峪関を中心に、北には懸壁長城、南に長城第一墩がある。


酒泉の宿でフロントの大お姉さんに聞くと、
嘉峪関まではバスで行くと良いとのこと。
バスで西関車站へ8毛。嘉峪関へ1元。安い!と喜んでいたら、
嘉峪関市内どまり。見所としての嘉峪関は郊外なのだが。
ひと通りバスを探してみるも、見つからず。
道に停まっていたおばちゃんドライバーのタクシーをチャーターし、
嘉峪関関城、懸壁長城、第一墩の三ヵ所を周った。





IMGP4621
[懸壁長城]

まず懸壁長城へ。
嘉峪関から北へ続く長城は、
険しい山にぶつかり、そのまま山を登っていく。
その様子を「壁に懸かる」長城と呼んだ。

なんて話を聞くと、非常に勇ましい感じだが。
土と藁とで出来た長城は、見事にキレイに直されている。
忠実には再建しているのだろうが、キレイ過ぎる嫌いも無いでは無い。

ここ、登りが結構急で息が切れる。
ラダック高原に行った後の山登りでは息も切れなかったが、
3ヶ月も経つとダメか…
頂上まで登り、降りてくるまで人っ子一人いない。長城を独り占め。
戻る途中、カップルが一組来ただけ。

なお、ここは明代1539年の創建とある。
ちょうど「北虜南倭」に苦しんでいた頃のこと。
こんな峻険の場所にまで長城を築いたことに、
当時の為政者の焦慮を感じる。



IMGP4683
[第一墩]

次に第一墩へ。
嘉峪関から南方へ伸びてきた長城は、
ここで56mもの断崖絶壁の深い谷へと落ち、終わる。
「第一墩」とは、西方で最初の見張り台がある場所という意味らしい。

ここには、漢代の前線基地の様子が再現された映画のセットがあった。
そして川を渡る吊橋も。
高さ50mだぜ、50m。おっかない。
高所恐怖症だし、誰も見ていなかったので、
吊橋の途中で写真を撮って引き返した。
また、川へ張り出したガラスから下の川を覗ける地下室もあった。
なるほどアトラクションとしては、よく出来た場所だ、
と無理やりにでも長所を探してみた。
それでも、朽ち掛けた長城の先に嘉峪関がかすかに見えた時、
心がすこし震えた。

なお、ここの門票の説明書きはなかなか調子が良く、
“西面、浩瀚無際の大沙漠にして
 北面、雄偉壮観たる嘉峪関と相連なる。
 南面、逶迤起伏たる祁連雪山なり。
 墩台は討頼河の北岸にて、高さ五十六メートルの峻険なる崖上に直立す。
 まさに「天下第一険墩」と言うべし。”
とあった。

多少、大袈裟な嫌いもあるが、
件のアトラクションといい、この説明書きといい、
そうやって盛り上げて行く必要があるのだろう。第一墩。

IMGP4680
[映画のセット。]

IMGP4689
[第一墩より嘉峪関を眺める。沙漠の中に続く長城の突き当たりに小さく嘉峪関が見える。]



長城巡りのトリはもちろん嘉峪関。
車窓から見ると、遠くからだんだん見えてくる姿がカッコイイ。
楼閣が四つ。だいぶ高台にそびえている。
ここはなかなか風情もあり良い。
西安の城壁も明代だが、様式は同じ。
しかし、西安のものよりも修築度合いは低い。
それがまた、良い。

西安で他の旅行者と話したことを思い出した。
現代中国の大都市はどこへ行っても同じ風景だ、ということ。
文明の持つ普遍性のようなものか。
おそらく中国の都市の街並みは、
古代から現代に至るまで、それぞれの時代においては、
中国内のどこへ行っても同じだったのではないだろうか?
これまで見た、同じく明代の西安平遥・嘉峪関もそうだ。

なお嘉峪関は明代1372年の創建。明の建国まもない時期に建ったようだ。
長城全体でも随一の規模、保存状態とのこと。


IMGP4760
[嘉峪関にて。]

IMGP4772
[嘉峪関。無茶な修築が施されていない辺り、好感が持てる。]

IMGP4756
[嘉峪関。四角い内部はかなりの広さ。]

IMGP4731
[嘉峪関。全体的に無骨な建物の中、紅一点。]

IMGP4763
[長城は続いている。]




最後におまけ。
まだ時間があったので「魏晋壁画墓」へ寄った。
ここは3~5世紀の魏・晋代の地下墓で、壁画が面白いらしい。
嘉峪関市内から20km弱の新城郷へ向かう。だいぶ遠い。

地下画廊とも呼ばれる魏晋墓。他に客は一人もいない。
おじちゃんに小さな博物館を開けてもらい
一通り見た後、車で少し離れた陵墓へ。
ここもおじちゃんに鍵を開けてもらう。
頑丈な鉄扉を開けると、中にまた南京錠が2つ付いた鉄格子。
階段を少し降った鉄格子にも南京錠が3つ。厳重だ。

地下墓は、3つの部屋が縦に並んでいる。
天井はそれぞれがドーム状になっている。
壁には可愛らしい絵が並ぶ。馬、羊、鳥、牛、豚などの動物。
豚や牛を生け贄にしている絵。畑を耕す絵。また肉屋の絵もあった。
村や町での人々の生活を描いているのだが、
いずれにしても動物を描いたものが目に付いた。

地下墓内の滞在時間は10分ほどだったが、
観光客の溢れた嘉峪関を見た後だっただけに、不思議な空間だった。


IMGP4848
魏晋壁画墓。外から見るとただの土盛。




[メモ]
・タクシーチャーター4時間で160元(1時間40元計算)
・門票>嘉峪関(博物館含む)100元、第一墩21元、懸壁長城25元、魏晋壁画墓31元

 それにしても中国は入場料がかさむ…


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(写真:PENTAX K20D + PENTAX-DA★ 16-50mm F2.8 にて)

酒が湧く泉 [酒泉 じょうちゅえん]

R0013001
[街の中心、鐘鼓楼]


酒泉は、地方の小振りな街という雰囲気。
街の一角に“酒の湧く泉”がある。

酒の泉の伝説とはこうだ。
漢の武帝が、匈奴戦で功を得た霍去病に酒を賜った。
ところが、酒は足らず、兵全員に行き渡らなかった。
そこで、酒を泉に注いでみると、酒は泉から湧く湧く。
そうして兵全員が祝い酒を堪能できたそうな。
めでたしめでたし。

泉の傍には、李白の「月下独酌」の詩碑もあるとの事。
敬愛する李白先生の詩、それもかなり好きな詩がある。
これは行かねば。
“酒が湧く泉”なんて、そんな虫の良い話がある訳ない、
と思いつつも、街を歩いて探した。

街の中心=鐘鼓楼から、酒の泉があるはずの公園まで、
観光客目当てに再開発が進んでるようだ。
表通りにはちょっぴり擬古風の建物と
シルクロードにまつわる歴史上の人物の石像が立ち並ぶ。

泉があるはずの場所に辿り着いたが、
公園は見つからない。散々探し歩いたが、
どうも新しく出来た博物館に呑み込まれてしまったようだ。
『西漢酒泉勝蹟』というそこは、
匈奴に対する西漢(前漢)の戦勝を記念する場所らしい。

もともと泉があっただけの公園に、
真新しく建てられた記念館・・・
内を察するに、昔からある物は酒の泉だけのはずだ。
泉の酒を呑ましてくれるんだろうか? 否。微妙。
そもそも泉から酒が湧くんだろうか? 否。秘匿するに違いない。
入場料30元を払う価値があるか? 否。絶対的に否。

ってことで、呑みに行くことにした。
30元もあれば、たらふく食って呑める。
酒泉の繁華街は、さまざまな飯屋、飲み屋、ホテルなどが集中している。
派手な電飾看板が並ぶ。
車道にはガタイの良いタクシーの運ちゃん達が集い、
歩道には家族連れから、派手なメークのお姉ちゃんまで行き交っている。

その一角に串焼き屋が立ち並んでいた。
肉を食いながら、酒を飲む男達で賑わっている。
一人でも入りやすい雰囲気。
自分も羊の串を食いながら、ビールを飲んだ。




R0013007
酒仙は詩の題材に上ることが多かった。
街には文学者たちの石像が立ち並ぶ。



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街は変わり行く。
観光都市として、徐々に整備されてゆくようだ。
KFCのある街の中心から15分も歩けばロバが走っている。



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酒仙のたそがれ。



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結局、酒と、



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羊串。


(RICOH GRDⅢ にて)


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硬座の旅 [西安~酒泉]

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列車は延々と甘粛の河西回廊を往く。
ひたすら沙漠。
なるほどここが遊牧民と定住民の激戦地であったわけだ。
地平線を阻んでそびえる山脈が西に見える。
雪が覆っている。祁連山か。

列車は昨夜西安を出発する前には、
乗客皆が暑い暑いと喘いでいた。
それが夜半、窓を少しでも開けていると
寒気が入り込み、耐えられない程になった。
座席の夜行列車なので、眠ったり醒めたりしていた。
うつらうつらした意識の中、
Tシャツの上にYシャツを一枚着ただけで何とか過ごそうとしていたが、
早朝6時前蘭州に着く前には、さすがにジャンパーを出して着た。
ジャンパーを着てみるても尚寒さを感じるほどだった。
身体が冷え切っていたのだろう。

硬座である。はじめての硬座は奇跡的に人との出会いがあった。
それ以来、何も厭うことも無く利用し続けているが、
いつでもやはり人の交流はある。
でも7年前程賑やかではない。
硬座の風景と言えば、以前は皆、マイ水筒を持っていたはずだ。
それが今や9割方の人がペットボトルを利用するようになった。
外の目から美しいと思っていた美徳が一つ失われようとしている。
資本主義が行き届いてきた。人がモノに囲まれるようになって来た。
人はモノに囲まれすぎると、モノが邪魔をする。モノが視界の邪魔をする。
モノが邪魔をして、向うの人が見えにくくなる。
そうなると、車内での会話も少なくなる訳か、と納得。
自分が幼い頃の日本も電車内での他人同士の会話はあったと記憶する。
日本での変化もそう長い時間を掛けたものでは無いのだろう。
少なくとも僕が生きてきた時間の中でもかなりの変化をしている。


15:00 酒泉駅着。バスで街の中心へ20分ほど。2元。
一通り南北の街路と西北辺の食堂街を歩いてから宿へ飛び込む。
一軒目は安かったが「実は日本人なんだ…」というと断られる。
二軒目でOK。

後でフロントの大お姉さんが「本当は外国人はダメ」なのだと話してくれた。
どういう意図で言ったのか?と、訝しがった。
(外人だからって追加料金でも取るのか?)
ところが聞くと、
外賓はこの宿にはいないので狙われる可能性がある、
危ないから荷物に気をつけてねとのこと。
鍵を管理する服務員のおばちゃんも、わざわざ部屋まで訪ねて来て、
ドアは一回一回閉めるように。こっちはいつでも対応するから、
と言ってくれる。
(中国の宿では、部屋の鍵を客に渡さず、
 服務員がまとめてジャラジャラ持って管理していることが多い)
外出する時も「安全第一よ」と言って送り出してくれた。
人の温かさはさほど変わっていないような気もした。
懐の広い人が多いのは、まだまだ変っていない、と思うにつれ、
細かいことを疑った自分の小ささを反省。



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女子写真@西安

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好きな食べ物は魚。
故郷の湖南では淡水魚が沢山獲れるという。雨上がりには、特に沢山獲れる。
西安に来てまだ2ヶ月ほど。以前は深圳(シンセン)のアパレルで働いていたという。
故郷の湖南には3年ほど帰っていないが、家族には週に1回電話をする。
感じの良い娘。宿のスタッフの中で一番会話することが多かった。
言ってることが聞き取れず、僕が聞き返すたびに、
「あたしの漢語は標準じゃない」と言ってくれるが、
ゆっくり話してくれるので会話が成り立つ。
最終日にお互い寂しいもんだねえ、と呟いた。


(PENTAX K20D + PENTAX-FA 31mm F1.8AL Limited)


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