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サマルカンドのタクシードライバー



サマルカンドのタクシードライバー。

夜ほっつき歩いてたら、撮ってくれと言われた。
この町の人は皆、ずいぶん人懐っこい。
レギスタンの警備の警官も(賄賂払えば)安く入場出来るよ、と声を掛けてくるし。
なんだかのんびりしてる。




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サマルカンド建築案内 第四回 【シャーヒ・ズィンダ】





シャーヒ・ズィンダ。

アラブ・イスラム帝国の侵攻後、この辺りはイスラム化が進むこととなった。
預言者ムハンマドのいとこクサムは当地まで布教に訪れたが、異教徒によって殺された。
が、クサムはしかし実は生き続けている、という言い伝えが、
まことしやかに流布するようになり、この地は聖地となった。
ペルシア語で「シャーヒ・ズィンダ」=生ける王と呼ばれる所以である。









後にティムール一族の廟もこの地に建てられることとなり、
あたかも繁華な街のように壮麗な廟が立ち並ぶ。









聖地ゆえ訪れる人も正装だ。









廟の中の装飾も綺麗です。
無数にある廟は、外も内も各々が凝った造り。
日光東照宮を思わせるような壮麗な趣がある。







青は、青の都サマルカンドのイメージカラー。


ここはサマルカンドで一番綺麗な場所かもしれない。
と思ったのは、
サマルカンド最後の日に訪れたからかな。





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「サマルカンド建築案内」
第一回 【アフロスィヤーブの丘】 
第二回 【ティムール建築】    
第三回 【レギスタン】      

緑町ってリアルに実家の住所っぽい [シャフリ・サブズ / ウズベキスタン]

ティムールの生まれ故郷にして、副首都だったシャフリ・サブズへ、
サマルカンドから日帰りで行ってきました。


ペルシア語で shahr-i-sabz →「町 of 緑」だから、
和訳すると「緑町」ですか・・・

語感的に大幅にスケールダウンしますね・・・ 
無かったことにしときましょう。

あ、緑が「sabz」ってインド方面へ行った方にもお馴染みの響きかもしれませんね。
ちなみにこの町はUNESCOの世界遺産に登録されています。







サマルカンドからシャフリサブズへは岩がちの山を越えていきます。
なかなか絶景続きなのです。









アミール・ティムール像。
ウズベク内に何体あるのかな? 
僕はこことタシケント、サマルカンドで見ましたが。









すると、女の子が走ってきた。










アク・サライ=「白・宮殿」は、チムールの夏王宮。高さ65mの門跡が残る。
東京の超高層ビル第一号ホテル・ニューオータニ(17階・72m)が完成したのは1964年。
600年も後のことだ。









アクサライの門がどれだけ大きいかというと、こんな感じ。
人がプラモデルの戦艦大和に乗ってるかろうじて人型してる人みたいです。









この門の上に登ることが出来ます。









バザール附近。中心部はなかなか賑わってます。









ザ・ウズベク! という感じのおばちゃんたちが行商してます。
ここでは、ひよこがたくさん段ボールに入って売られてました。









バザールでトマトを売るおばちゃん。









と、おばちゃんの娘か親戚でしょうか? どうでしょう、鑑定団のみなさん。
(バザール神経衰弱についてはこちら→ぽち









キャラバン・サライ。









表通りを南下すると大きなドームが見えてきます。









ここ、コク・グンバズ・モスク=「青いドームのモスク」は、
4代目ウルグ・ベクが父である3代目シャー・ルフに捧げた金曜モスク。









廟内の装飾。サマルカンドでよく見かけるものよりも落ち着いた意匠が多い。










ご、ごめん。何も買わなくて...  これは土産物を売っていた女子。









ダールッ・サーダット建築群の中にジャハーン・ギル廟がある。
ここは、チムール最愛の長男ジャホーン・ギルを葬ったところ。
今、天井には鳩が住んでいる。









隣にあるのは、ハズレティ・イマーム・モスク。
古い聖者を奉ったモスクは、木の柱が印象的。
こういうスタイルは、東トルキスタンのカシュガルや、
タジキスタンのイスタラヴシャンでも見た。








仲良し二人組。









後ろに見えるのがジャハーン・ギル廟。

そして、この入口から地下へと潜ると、









チムールの棺があります。

チムールは実際にはサマルカンドのグーリ・アミールに葬られているので、これはあくまで棺。
この棺には、二体の身元不明の遺体が発見されているという謎。





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サマルカンド建築案内 第三回 【レギスタン】



サマルカンドの代名詞、レギスタン広場。
三つのマドラサ(神学院)で構成される。


左 ウルグ・ベク・マドラサ
中 ティリャー・コリー・マドラサ
右 シール・ダール・マドラサ


最初から組で建設されたわけではなく、左、右、中の順で建てられた。
最初のものは、その名の通りティムール朝・第4代君主ウルグ・ベクによるが、
後者二院はティムール朝も途絶えて久しい17世紀のもの。

増築という行為はしばしば無茶なものだが、これほど素晴らしい景観を生み出したのは見事。

なお、レギスタンとは「砂の場所」というペルシア語だ。
タシケントがペルシア語で「石の町」、サマルカンドもソグド語で「石の町」だから、
なんだか乾いたイメージだ。









遠くから眺めるも、近づいて見るも、どちらも良し。
青を基調としたタイルの装飾が見事です。









見事な装飾のドームの内側は、正面のティリャ・コリー・マドラサ附設モスク。









シール・ダール・マドラサは、正面右手の建物。
ペルシア語でシール・ダールとは、ライオン・有る を意味するから、
「有獅院」とでも訳せるのだろうか。
偶像崇拝を禁じるイスラムの建築にあっては珍しい意匠かもしれない。
のち、イランで同じようなデザインを見ることになる。




ところで、これスゴイです。オススメです。
以前、古写真で見たサマルカンドの様子が良いなと思っていたのですが、
次のサイトで、ロシアの写真家セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーによる
「カラー」古写真を見ることが出来ます。
氏は、1910年のロシア革命でパリに亡命するまで、
ニコライ2世の支援も受けてロシア各地でカラー写真を撮影したらしい。
20世紀初頭のカラー写真! 凄いですね。
 ↓
http://www.thespektator.co.uk/spg2.html
(サマルカンドは70~87ページ)



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「サマルカンド建築案内」
第一回 【アフロスィヤーブの丘】 
第二回 【ティムール建築】    

ウズベキスタンのラグマン  ~麺紀行10~

2011.12.24 ・麺が好き
さて、麺を食べる旅もここのところラグマンばかりですが、
今日もばくばく行ってみましょう。




サマルカンドの名宿バホディルの夕食は三日に一回ペースでラグマンだった。
ご覧の通り、芋などの野菜と羊肉を煮込んだショルポ(スープ)の中に麺を入れたもの。
麺を食べるという感覚ではなく、スープの具の一つと捉えた方が良いのだろう。
東アジア人的な麺食の感覚で臨むのは、タブーかも知れない。
ノン(パン)、サラダ、果物、チョイ(茶)、と彩りもバランスが良いですね。







町の食堂で食べたラグマン。見た目がなんとも言えず、素朴ですね。
味はあまり覚えていないのだが、濃い味だった気がする。
味覚は生粋の関東人の自分がいうのだから、相当しょっぱかったのだと思う。
刻んだディルの上にスメタナが乗っている。盛り付けがおしゃれですね。
ウズベクの食卓は、彩り華やかで盛り付けの妙もありキレイだと思います。



急に思い出したのだけど、
中国から旧ソ連最初の国キルギスに入って、
最初の宿は、おばさんの顔が怖いことで有名な宿だった。
が、部屋に入り、なかを見回して見ると、
窓枠の前に、可愛らしい花瓶に小さな造花が挿してあった。
自分はそこに、それを飾った人のちょっとでも部屋を綺麗に飾ろうとする、
さり気なくも、けな気な努力を感じたのかもしれない。
それで、なんとなく、じわーっとほっとしたのを覚えている。
中国ではあまり触れることのない感覚だったからだろう。

あの花を飾ったのが顔の怖いおばさんでも
可愛らしい20歳くらいの娘さんでも、今はどっちでも良い。
キルギス・オシュの騒動でバザール内のその宿も無くなってしまったらしい。



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※過去の「麺」記事はこちらへどうぞ→ぽち

サマルカンド建築案内 第二回 【ティムール建築】

第二回は、サマルカンドの諸建築の中でも、
初代ティムールが建てたものに絞ってお伝えします。

ティムールの建築の特徴を言うならば、デカイ。 

その一言に尽きます。





ビビ・ハヌム・モスク。
この中央アジア最大のモスクは、正真正銘ティムールにより建てられたもの。
大きすぎるからだろうか、正面の大門の改築は進んでいないようだ。

新築のように改修されているサマルカンドの諸建築の中でも味のある建築。

スィヤーブ・バザールは市内中心にある大きな市場だが、
このモスクに近接していて、上の写真のちょうど右側が市場だ。
逗留していたB&Bバハディールからバザールへ行くのに、
この前を毎日通ったのだが、あとで見るとこのモスクを撮った写真はこれだけだった。
あまりに溶け込んでしまうと写真を撮ることも忘れてしまうようだ。
それだけに生活に近い場所に建っているモスクと言えるかも知れない。
モスクの裏には昔ながらの家並みが広がっている。









グーリ・アミール。
とは、アミールの廟という意味で、
もちろんアミール・ティムールを指す。

当初ティムールは戦死した孫のために建てたが、
わけあって自身が葬られることとなった。
初代ティムールののち、3代目シャー・ルフ、4代目ウルグ・ベクも眠る。
2代目はかなり問題児だったので、ここにはいない。





きらびやかなドーム内。
最初の写真でお分かりのように、ドームを円筒で伸ばしたような作りが、
ティムールの好みだったようで、これがサマルカンドの建築の特徴にもなってる。

なお、グリ・アミールの一枚目の写真の左方には、住宅街が広がっているが、
数年前に建てられたという塀によって遮断された状態になっている。
居住者のための出入り口は、ある。
おそらく、当局としては旧住宅街は観光客に見せたくないという理由で
塀の向こうに隠してしまったのだろう。
どうも、サマルカンドの町全体にそういう為政者の思想が見え隠れする。
歴史的建造物が相互の連繋を断たれ、ポツーン、ポツーンと寂しく独立して点在している町、
という印象がぬぐえないのがサマルカンドの残念な点。
これは人為的になされたことなので、文句を言ってみても構うまい。







R0014762

おまけ。ホジャ・アフマド・ヤサウィ廟(カザフスタン・トゥルキスタン市)。
こちらもティムールによる建築ということで掲載します。
この廟の周囲というかこのトゥルキスタンの町には高い建物が皆無なため、
一際目立つ巨大な建築物に見える。
この町に着いて初めて目にした時の衝撃は忘れられない。
(→詳しくは、ぽちっ



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「サマルカンド建築案内」
第一回 【アフロスィヤーブの丘】 

ブハラ・ユダヤ人  ~中央アジアのディアスポラ~


[サマルカンドのシナゴーグ。]



サマルカンドの宿で知り合ったイスラエル人と一緒に散歩している時、
彼はふと足を止めた。 辺りは何もない丘の上の一本道。
なんだ?と思って、
その視線の先を見やると、墓地の門にダビデの星が掲げてある。
その時、かくも目ざとく見つけられるのも、強い同胞意識の表れかな、と感心したものだ。

アフロスィヤーブの丘の上には、広大なユダヤ人墓地がある。


また街中には、シナゴーグが綺麗に保存されていて、
今では博物館となっている。内容はかなり充実していた。
その充実ぶりは、さすがユダヤのお金持ちが出資したんだろな、と思うほど。

かつて、中央アジア在住のユダヤ人は15万人にものぼったという。
古代ペルシアのキュロス大王によってバビロンから解放されたユダヤ人は、
アケメネス領内に大勢移り住んだと言うから、同じく領内だったこの辺りまで移住したのも、
よく考えて見れば、不思議でもないのか・・・
それにしても、意外だった。

近代直前には、その多くがブハラ・アミール国に居住したことから
彼らは「ブハラ・ユダヤ人」と呼ばれている。
(ブハラ・アミール国=ブハラを首都としたからこう呼ばれるが
 サマルカンドも領有していたのだ。)

古写真で見る限り、彼らの外見は相貌も服装も
他の現地人のムスリム達との違いは見出せない。
日常使われる言語も土着化していたようだ。(wiki ブハラ語
ただし、祭礼儀式に使われる聖書などは、見まごうことなきヘブライ語だった。

ソビエト連邦の崩壊後、
15万人いたブハラ・ユダヤ人のほぼ全てがイスラエルなどへ移住し、
今や数百人ほどが残るだけのようだ。

のちに訪れるブハラでは、
今もその地に住んでいるユダヤ人の話をこぼれ聞いたが、
それはまた後の話ということで。



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サマルカンド建築案内 第一回 【アフロスィヤーブの丘】





アフロスィヤ-ブの丘は、旧城市跡。
かつてのソグド人の都はここ。アレキサンダー大王が攻略したのもここ。
ギリシア語史料にマラカンダと記された頃のサマルカンドはここってことですね。

フジャンドが東端のアレクサンドリアであるらしいことや(→ぽち)、
ここサマルカンドでアレキサンダー大王にプロフが饗されたらしいことは(→ぽち)、
以前にもお伝えした通りですが、
ついに僕もここにやってきたわけです。

中華世界からは「康国」として知られましたが、
敦煌の莫高窟にもソグド文字による書が奉納されていたことも以前お伝えしました。(→ぽち
いや~、ますます色々なものが繋がってきましたね。



これは在りし日の姿です。(ネット上で拾ったイメージ図。)
afrasiab1-1.jpg

アフロスィヤーブと玄奘も訪れた砕葉=スイヤブ(ソグド・突厥の都市。現キルギス)は、
響きが似てると思っていたが、ぐぐってみたら、
それぞれ語源は「afra-siah-ab」→「越-黒-水」、「suy-ab」→「向-水」(→Encyclopaedia Iranika
という意味らしい。 うーん... ま、
どちらも川の向こう側ってニュアンスですね。 



ちなみにタラス河畔の戦いで、
唐朝がイスラム帝国アッバース朝に敗れたことは、この街とも無関係ではないようだ。
タラス河畔での両帝国の接触は、製紙技術を西方へもたらすきっかけとなったことで有名だが、
初期、その工場が建てられたのは、このサマルカンド旧市だとも言う。
中華世界から製紙法が飛び出して、初の工場かな?


この旧市は後、チンギスハンの軍勢によって廃墟と化して後、見捨てられた。
サマルカンドに関して言えば「チンギスハンは破壊しチムールは建設した」の謂いは正しそうだ。





丘の上からは、ティムール朝期の大建築郡を一望できる。
街中が観光客で溢れかえってるサマルカンドにあって、
この丘の上は静かだ。
ふと空想に耽りたくなった時にでも訪れてみてはいかがでしょう。





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ティムールという男の話  【ウズベキスタン】

ティムールという男の話をしておかなきゃなりません。

このテュルク語で「鉄」を意味する名前を持つ男は結構いるのですが、
さしづめ日本で言えば太郎ってとこですかね? いや、太郎は逆に希少ですかね…





この人も、
060803_01.jpg





この人も、太郎です。
kuidaore-1.jpg





いや、ティムールです。











以前、タジキスタンの英雄、イスモイリ・ソモニの話をしましたので、
ウズベキスタンの英雄、アミール・ティムールの話もしなければフェアじゃないでしょう。

両者の共通点は、ざっくりいえば、
ソビエト連邦時代にはレーニン像が建っていた場所に
タジクだったらソモニ像、ウズベクだったらティムール像が建っていること。
つまり、ソ連解体、独立後に国民統合のシンボルとして採用されたヒーローなのですね。

タジクの項で以前お伝えしたとおり、
ソモニが統治者だったサマン(ソモン)朝は、
現ウズベキスタンのブハラに都していました。(→ぽち
タジク政府(というか、ラフモン大統領)は、
隣国ウズベキスタンの街であるブハラを首都に置いたサマン朝の英雄を英雄としてしまった。
国境が一度確定している国にあって、こういうことをするのは反則というか、
事態をややこしくするだけなような気もします。
っていうか、喧嘩売ってるんじゃないのか? と疑いたくもなります。

そもそも各民族共和国の区分ができる近代以前、
タジク語とウズベク語は都市においてはごく普通に共存していたし、
両民族の間に明快な国境を引くことが難事業だったわけですし、
本来、民族として分けるという行為自体が難い人々だったことは、
これまた以前お伝えしたとおりです(→ぽち)。

しかしまあ、一旦異なる民族として出発し、はや80年。
お互いに異なるアイデンティティを確立し、
お互いに罵る言葉を聞くことも少なくありません。
(タジク人がウズベク人に対しての場合が多かったが。
 そして、
 タジクにおいては政府がかなり煽っているような印象を受けざるを得ないのだが。)



とまあ、そんなタジクの英雄ソモニに関わる難点は多そうですが・・・
今回はチムールくんの話です。

チムール (タメルラン←西欧史料でこうも呼ばれる)は、
現ウズベク領内シャフリサブズ辺りで
モンゴル貴族の家系(バルラス部族)に生を受けた人物です。
彼はかつて広大な領土を誇ったモンゴル帝国を再現するかのように、
一代で大帝国を築きます。
このチムール朝は、チムールがひろげた大領土を縮小・分裂しつつも16世紀まで続く。
(1370年-1509年)

余談ですが、チムールは現代でこそウズベク人の英雄ですが、
ウズベク「族」というのは、チムール朝は滅ぼした部族なんですね…
現代ウズベク人の民族名の元となったウズベク族は、
現代ウズベク人の英雄であるチムール帝国を滅ぼした、
という奇妙な関係、というか皮肉な関係にあるのですが・・・

ま、チムールは別格ですからね。
世界史上の人物として横綱級です。
レーニン亡き後の国の象徴として、ぜひにとオファーが掛かったのも当然っちゃ当然です。

チムールの版図が、どのくらい大きかったかって話ですが、
世界史上の大帝国というと、
モンゴル帝国、帝政ロシア、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス帝国、
オスマン帝国、ローマ帝国、大唐帝国、大清帝国、大英帝国、などなど思い浮かびます。



アレクサンドロス帝国
MacedonEmpire-1.jpg



モンゴル帝国(チンギス時代の領土はこの一部ですが)
Mongol_Empireaccuratefinal.png



ティムール帝国
Das_Reich_Timur-i_Lenks_(1365-1405).gif



が、しかし、一代で築いた帝国としては、
チンギス、アレクサンドロスに並ぶ規模ではないでしょうか? まさしく横綱級です。


チムールは後代の歴史への影響や地理的な広がりを考えても、偉大すぎます。
築いた大版図の各地から職人を呼び寄せ、
首都サマルカンドを中心に大建設が続けられます。
各地の様式を継承した上、進化発展させたテムール朝の建築は、壮麗の一言です。

チムール朝が滅びて後、ものの20年もしない内に、
王族の一人バーブルは中央アジアを諦めて大転進。
インドはデリーに侵攻し、ここにムガル帝国を建国しています。(→ぽち
タージ・マハルに代表されるインド・イスラム文化はここで花開くきっかけを得ました。
初期のムガル朝では、ペルシア語に並んでチャガタイ語(テュルク語)も使用されましたし、
バーブル自身の著書「バーブル・ナーマ」はチャガタイ文学の傑作とも言われます。
もちろん当地の言語にも影響を与えていて、
ムガル宮廷言語を基にしたウルドゥ語には特にその跡を見ることが可能なようです。
(ウルドゥ=宮廷・軍隊←これ自体がテュルク語らしいです)

中央アジアと南アジアは、現代の地理感覚から言うとなかなか繋がりにくいですが、
歴史上では現アフガニスタンを挟んで、不断に行き来があった地域でもあるんですね。
ただ僕の場合は、大迂回をしてやっとサマルカンドに着いたのですが…、
デリー、アグラオシュ(フェルガナ盆地)と、
バーブルに縁の場所いくつか訪れた後だけに感無量な感じです。

チムール建築を初めて見たのは、カザフスタンのホジャ・アフマド・ヤサウィ廟でした。
デカイ! の一言でした。
未完のままの建築で、それゆえ荒々しさもありますが、
その大きさから、とてつもない企図を感じた覚えがあります。

そんな色んなものがついに繋がったサマルカンドです。
そして、その繋がりの象徴がチムールだったりするわけで、個人的に。

チムールが、どかーんと一度広げた世界が、
ぎゅっとこの一箇所に集まっているような、そんな感じです。
サマルカンドを歩く度に感じていた気分は、そんな感じです。

ってことで、
長い長い前置きしたでしたが、
次回、サマルカンドの建築案内です。



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伝統刺繍スザニ [ウズベキスタン]




伝統的な刺繍のスザニ。
語源のスザンはペルシア語で「針」を意味するように、
女性たちが私的に手縫いで作り継いできたものだ。

嫁入り道具としても大切なもので、
作り手一人一人が独自のデザインをほどこす。

とはいえ、いくつか共通のモチーフはある。
太陽や月、火、花、土、ツタ、ざくろなどの果物 etc.
こうした象徴的なパーツに基づきながら、
ひとり一人が世界観を表現するかのように手で縫いつける。

光と闇のような対照が、よく表現として使われる。
これは、ゾロアスター教的な世界観の名残だと聞いた。
イスラム化やテュルク化以前からの名残が、
こういうところに残っているのかと思うと、感嘆。

いったん定着した世界観やモノの見方というのは、
何百世代を超えても、根強く残るものなのだろうか。
目で見れないものだけに、確かめるすべも無い。
それが集合体となるとなおさらだ。



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日本人初? ユーラシア大陸最大の洞窟へ [オプティミスティチナ洞窟]

2011.12.11 ・雑記帳




一週間の洞窟探検から無事、地上に帰還しました。

ウクライナ西南部コロリフカ村(Королівка)の地下は広大なカルストをなしていて、
そこのオプティミスティチナ洞窟(Оптимістична)は
踏破されている分だけでも238km、未踏破部分も含めると全長500kmに及ぶ、
ユーラシア大陸最大の洞窟です。(世界でも第3位)

このたび縁あって、探検隊に参加してきたのですが、
たぶん日本人初の訪問者だ、と言われました(!)
けっこう適当な人たちなので、ホンマかいな?という感じですが、
そうだとしたら、名誉なことです。

洞窟内は、かなり手つかずの自然のまんまで、とうぜん狭く、
カニ歩きや、四つん這いになって中を進みます。
そして、ほぼ毎日、地崩れで埋まった窟道から土を掻き出す作業をしたのですが、
かつての炭鉱労働者もこういう気分だったのだろうか、と
なかなか味わえない気分を体験することができました。

ま、詳しい状況は今後ウクライナ編をUPするときにお伝えするとして、
とりいそぎ生存報告でした。







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国民食プロフ。 国民とは誰か?





国民食プロフです。
ウズベク語でパロフ、タジク語でオシュとも。
右後ろに見えるのは、ウズベクで圧倒的人気を誇るサマルカンド・ナンです。


プロフ  です。

またかよ… は禁句ですよ。


いや、だから、タジク人とウズベク人を分けようとするのそもそも無理がありまして…

とはいえ、
このプロフは、サマルカンドの名宿「ボホディール」の夕飯なのですが、
ここの家族はタジク語を話していますね。
サマルカンドはタジク語話者の多い町です。
体感値で言えばタジ:ウズ半々というところでしょうか。
(ナイーブな問題をはらんでるため公式の統計は無いようです。)
タジク語と一口に言っても、例えば、
リシタン辺りの人がサマルカンドのタジク語を聞いても分からないと言う程、
方言差はあるようです。

かつてここらの都市住民は「サルト」と呼ばれてました。
共通の文化・風習・宗教を持つ都市住民を指すもので、
言語による区分ではなかったようです。
言語面では、基本的に都市住民は多くペルシア系のタジク語を話すのですが、
テュルク系のウズベク語も理解するバイリンガルも多かったのでしょう。

そのため、近代的な民族意識が芽生える以前、
19世紀頃までは、サルト、ウズベク、タジクという呼称は、
自称他称問わず、どうも渾然としていたようです。
(つまり、現ウズベク人も現タジク人もサルトだったし、
 現タジク人がウズベクと自称したり、現ウズベク人がタジクと自称したという例もあったらしい。)

ロシア革命後、ソ連邦では民族ごとに共和国の国境画定がされましたが、
その時、言語によって民族区分がされたことや
さらには「サルト」が全てウズベク人として登録されたことが、
後代まで遺恨を残す発端になったといえるでしょうか。

ちなみに、大きな声ではいえませんが、
ウズベキスタンの大統領として長期君臨するカリモフ氏もタジク人家庭の生まれらしい。(→参照


っていうか、シルクロード編で、
すでに何度この料理の紹介をしたことやら・・・


ピラフの元祖を辿る   
ホータンのポロ  
タジキスタンのプロフ 


ま、それだけ、うまいってことですね。



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サマルカンド模様





なんか、よく囲まれるんです。この街。



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チンギスハンは破壊し、ティムールは建設した。





ティムールの外征は凄まじかった。

南はデリー、イスファハン、
西はアンカラ、バグダッド、ダマスカス
北はヴォルガ河まで攻め込んでサライを焼いた。
東に明朝を討たんとするところで、陣中に死んだ。

実際にはチンギスハンよりも破壊してるんじゃないか?とも思うのだが。

ただし、彼は多くの職人を占領した都市から帝都サマルカンドに集めた。
当時最高峰のイスラム建築がここサマルカンドに築かれたのはそのおかげ。




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ウクライナ風ボルシチの作り方 [直伝料理レシピ]

2011.12.05 ・食べ歩き




さて、少し時空が飛びまして、現在地のウクライナ・ルヴィヴからです。
え? ウクライナ?
ええ、ウクライナです。
ブログ更新を怠ってる間に、当人はもうこんなとこまで来ちゃってるわけです。

最初にお伝えしときますが、私しばらく旅に出ます。(これがUPされる頃には出てます)
ブログの方は1~3日に1回ペースで自動更新しますが、
コメントへのお返しは1週間くらい後になりそうなので、ご勘弁のほどを。

さて、ウクライナ滞在も早2ヶ月を経ました。
10月頃は 1kg60円ほどだったトマトが、ひと月ほど前から倍以上に急騰しました。
そのかわり、市場では根菜をはじめとした冬野菜が目に付くように。
キャベツ、白菜、じゃが芋、ニンジン、大根、ビーツ など旬野菜は安く手に入ります。

旬野菜を使ったボルシチ(борщ)は、だから、冬らしい料理と言えそうです。
ボルシチは、よくロシア料理として紹介されますが、実はウクライナ料理。
おふくろの味と言うのか何というのか、日本で言ったら味噌汁ですかね。

ちなみにロシアはロシアでシチー(Щи)という発酵キャベツを使ったスープがあるそうな。
ロシアの昔話やことわざには、このシチーが良く登場する。
幾つか教えてもらいましたが、詳しい話はまた今度。

ウクライナでは、女性はみんな独自に自慢のボルシチ・レシピを持っているのだと言います。
今回、宿主の母上に頼み込んで、自慢のレシピを教えてもらっちゃいました。





【材料】
①ブイヨン用
 豚ばら肉  300g かたまりのまま
 玉ねぎ   半個 粗みじん
 ローリエ  1枚
 胡椒丸粒  大さじ1杯
 パセリ根(白い根の部分) 1本  するorみじん
 にんじん  1本  するorみじん

②野菜1
 ビーツ   3個  細切り  ※テーブルビートというのが正式名称のようです。
 にんじん  3本  こま切り
 玉ねぎ   1.5個 こま切り
 トマト   3個  湯むきしてこま切り

③野菜2
 じゃが芋  3個     一口大の半分
 キャベツ  小玉半個  荒めに千切り

④香味付け用
 バター   適量
 玉ねぎ   半個  みじん切り
 にんにく  5かけ  みじん切り

⑤調味料 
 塩
 挽き胡椒   
 粉唐辛子(一味)    
 バジル   
 ケチャップ(トマトの味が弱い時、補強します) 
 パセリ葉   
  *上記、全てお好みの量


 スメタナ(サワークリーム)  お好みの量 





【作り方】
① まずはブイヨン作り。3リットルほどの大鍋に①の材料を入れ水をたっぷり張り、煮込みます。
  肉は柔らかくなるまで煮込むので塊のままでOK。

② 別鍋で②の野菜を柔らかくなるまで煮ます。焦げ付かないように①をコップ一杯入れます。

③ ①の肉が柔らかくなった頃、②と合わせ、③の野菜も投入。じゃが芋が柔らかくなるまで煮ます。

④ 別途、香味付のために④をフライパンで焼いて、大鍋①へ投入。

⑤ ⑤で味付け。

⑥ 食べるときは、スメタナをかけます。これが無いボルシチは片手落ちです。
  パセリ葉を刻んで載せてもグー。 
  ちなみに黒パンと生玉ねぎのスライスを付け合わせるのがウクライナ風。



さ、 うまくできましたでしょうか?








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生きているレギスタン  [ウズベキスタン・サマルカンド]





レギスタン広場には毎日通った。
僕の今回の旅の目的地を一つだけ挙げるとしたら、それはウズベキスタンで、
その中でさらに一つを挙げるとしたら、レギスタンだった。
何年も前からここを訪れたいと想っていた。

レギスタンの建築群は綺麗だ。
いずれの建物も修復され、新築然といてしている。
古写真に見えるような、朽ちかけている姿の方が味があると言えばあるのだが。

一番来たかったところに来た。
サマルカンド郊外にバスで到着し、市内バスで中心部に向かいながら
遠目に巨大な建築群が見えた時には、心が沸き立った。
初めてその姿を見る瞬間は興奮する。
けど、一日二日すると、それも落ち着いてくるものだ。
ずっと会いたかった人に、会うまでが一番盛り上がっていたりするのと同じで。

レギスタン広場には地元の学生が良く集まっている。
サマルカンドを紹介するガイド本などには、
この街の大学には日本語学科があり、
街中で日本語で話しかけられることもしばしば、と書かれている。 
実際に多い。
写真を一緒に取ろうという人、日本語や英語を練習したいという人、
自宅に誘ってくれる人 etc.

観光客の集まる広場は、彼ら彼女らにとっても、かっこうの場所なんだ。
そんな生きてる広場だから、毎日通ったのかもしれない。



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バザールでしょ? いや「ボーゾール」です。






ウズベク語で市場=バザールは、「ぼーぞーる=bozor」です。

バザールはボゾール、チャイハネはチョイホナ、パキスタンはポキストンなどなど、
タジク語でも A の音が O に訛化しましたが、
このマーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)周辺に共通の特徴なんでしょうね。
それで言うと、リシタンもリシトンとするべきなのか…。

リシタンの人たちは、ウズベク語とタジク語のバイリンガルが多い。
この地域ではもともとペルシア系言語が支配的だったのが、
1000年位前から徐々にテュルク化が進んだと言われます。
今なお二つの系統の言語が両立して使われていることや、
音韻的に共通する特徴を残していることは、面白いですね。

というか、
バイリンガルどころか、
ロシア語や英語や日本語「も」加わる人も多いわけですが…
商胡の伝統(?)おそるべしです。

そんな商売の民の原点(?)ボーゾールを紹介。
ウズベクでは数々の市場を見ましたが、リシタンが一番好きです。
大きすぎず、小さすぎず、彩り華やかな市場です。






リシタンの台所って感じですね。






スパイスの種類も結構そろっている。手前には漢語で「味鮮精」と書かれた味の素も見える。






とにかく賑わってる市場。屋根外までも商売してます。






この辺りでは、肉は吊るして売ります。






米は、1kgが1$くらい。






芋、玉ねぎ。 根菜屋さんですね。






ナン? ノンです。





青々。






リシタンの街自体がそうなのですが、ボゾールはさらに民族衣装率が高いです。






男どもはそうでもないのだが。 あ、髪型直してるとこでしたね… 






ところで、ボゾールを歩いてると、
どうみても親子だなー、と思う組み合わせが多いのです。






彼女らも親子っぽいですね。






こちらも親子&親戚でしょうか






この子たちも姉妹か親戚同士っぽい






眉毛はこの辺りのファッションです。





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