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レーとラサ

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ラダックは、チベット世界の西端にあたる。
レーは、かつてラダック王国の都として栄えた街で、
「小ラサ」といった感じ。
雰囲気のある良い街だ。
この地の人々は、チベット語のラダック方言を話し、
混血の跡が見られるが、モンゴロイドの顔付が多い。

このレーの街を見下ろす岩山にそびえる九層の王宮は、
ラサのポタラ宮のモデルになったとも言われる。

レーのように大規模な王宮や街は、
広いチベット世界を見渡してもなかなか無いから、
レーとラサが比べられるのも大いに頷ける。
しかし、チベット世界の辺境とも言えるラダックの地に、
このように大きな王宮があるのはなぜか?

“ここはシルクロードの重要な交易路上にあたり、
 交易によってもたらされた富が街を栄えさせた。”
そんな説明もそれなりの説得力を持っている。
が、それだけでは無さそうだ。歴史をみてみよう。



レー王宮の建設は、ナムギャル王朝の時代、
その最盛期を築いた王センゲ・ナムギャルによる。

センゲ王の時代、ナムギャル朝ラダックは、
チベット文化圏の西側大半を治めていた。
現在の地理で言うと、東は現パキスタン側カシミールの東部バルティスタンから、
現中国チベット自治区のンガムリン(シガツェの西150kmほど)までの広範囲に及ぶ。

へミス、チェムレ等、現在まで残る主要な寺が、
センゲ王の片腕、導師タクツァン・レーパによって建てられたのもこの時代だ。

このようにセンゲ王の時代、ラダックは隆盛を誇った。



17世紀当時、チベット世界は割れていた。
チベット動乱。動乱から新勢力による統一に向かう時代である。
その中、キープレイヤーとなったのは、
ラダックのセンゲ王やダライラマ等である。

歴史的には、元朝の滅亡とともにサキャ派が衰退して後の数世紀間、
中央チベットを掌握したのはカギュ派の政権だったが、
17世紀という時代は、新興勢力・ゲルク派勢力が旧勢力との抗争に勝利し、
[ダライラマ政権]を打ち立てるに至る時期である。

ラダックのセンゲ・ナムギャル王が生きた時代は、
つまり、分裂したチベット世界が、
新しい力によって統一に向かう時代であった。



さて、センゲ王の即位は1616年である。
この頃、中央チベットでは、
シガツェに拠点を置くツァントェ王政権[カギュ派]と
ラサを本拠とするダライラマ勢力[ゲルク派]との争いが続いていた。

カギュ派ツァントェ王は当時、中央チベットの「覇者」である。

一方、新興勢力ともいえるゲルク派は、
1577年にモンゴル皇帝のアルタン・ハーンにより
ダライラマの称号を授かって後、ますます勢力を伸ばしていた。

シガツェのツァントェ王の勢力がダライラマ側のデプン、セラ寺を襲撃し、
5000人もの僧侶を虐殺したという事件もこの頃のこと。
両者の抗争は熾烈を極めていた。



一方西方では、センゲ王が1630年、西チベットのグゲ王国を併合した。
グゲ王国とは、吐蕃王朝滅亡後、西へ流れた王族により建てられ、
チベット世界で一度は廃れかけた仏教を保護・復興したことでも知られる。
ここで起こったカダム派は、ゲルク派の基ともなった。
かように由緒正しく、800年ものあいだ続いたグゲ王国だったが、
領内で起こったドゥクパ・カギュ派とゲルク派の抗争を発端として、
前者を奉じていたセンゲ王のラダック勢力が、結果的に呑み込んだ。

波に乗るセンゲ王は、その後も東へ勢力を伸ばし、
シガツェを本拠とする「覇者」ツァントェ王と国境線を接することになった。
この頃には既に、長年「覇者」として君臨したツァントェ王と
ラダックのセンゲ王との力の差は明らかだったのだろう。
以後ツァントェ王はラダックへ朝貢することとなった。

ここに至ってセンゲ王は、カギュ派を奉じる旧勢力の代表勢力として、
新興ダライラマ勢力と国境を接することとなる。



いずれもモンゴル軍の後援を受けていた新旧両勢力だったが、
その争いは長くは続かなかった。
決着は、他のモンゴル諸勢力を退けたグーシ・ハーンと
その軍事的後援を受けた第五代ダライラマの勝利に終わる。

1642年、グーシ・ハーンの軍勢は旧勢力の「覇者」の本拠地シガツェを陥した。
ここに中央チベットの制圧が完成した。
グーシ・ハーンは、その後「チベット王」を称し、
ダライラマ5世(ゲルク派)に土地を寄進。ダライラマ政権の発足を見る。

同年、センゲ王は、
ダライラマ=グーシ・ハーン連合との戦いから帰る途中、
ラダックに入ってすぐのハンレの地で逝去した。



レーの王宮が造られたのは、前述したように、1630~1642年の間であるようだ。
1642年にラサで政権を発足させたダライラマが、
王宮の造営に取り掛かったのはわずか3年後の1645年。
1694年にポタラ宮は完成している。

その後のこと、
センゲ王亡き後のラダックは、ダライラマ政権と戦争をし、負ける。
1684年、ダライラマ政権はラダックから旧グゲ王国領を召し上げている。


レー王宮とポタラ宮の二つの王宮の物語は、
そのままチベット世界での主導権争いの軌跡でもあるかのようだ。


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[王宮の背後に、砦跡ナムギェル・ポタン、お堂ツェモ・ラカンが建っている。]

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[お堂ツェモ・ラカン。]

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[お堂内の仏像。]

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[王宮から見た旧市街。]

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[旧市街の石組みの家々。]

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[チベット建築です。]




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