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日本の思い出

2010.06.20 ▲日本
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2009年8月3日

「白い服も着させたいと思って買ったのに。
 全然着なかったんだねえ。」
5段のタンスには、ほとんど着られないまま眠っていた衣服でいっぱいだった。
おじいちゃんの終の棲家となった老人ホーム。
母と伯父と三人で訪れた。
母がタンスの中の衣服をたたみながら、涙声でつぶやいた。
枕元には、6月末に僕がバラナシから送った絵葉書が一枚置かれていた。

元気だったおじいちゃん。
つい2年ほど前まで、一人で旅行に出ていた。
山梨から長野を通り、金沢まで行った。
そこで荷物を置き忘れ、お遍路のとき痛めた足も動かなくなった。
荷物を忘れた時、本人は覚えていなかったという。
それから気力が無くなってしまったのか。

一昨年の夏には家族総出で山梨の温泉にも行った。
一人で金沢まで行ったのは、その後のことだ。
昨年から急激に気力を無くしてしまった。

僕の生まれた歳に建てた家を引き払い、老人ホームへ移ったのは昨年のこと。
母はちょくちょくホームに通い、身の回りの世話をした。
衣服や時計、雑誌などをおじいちゃんのために持っていった。
今日訪れた主を失った部屋も、物の数こそ少ないながら、
おしゃれだったおじいちゃんのためそろえられた衣服や、
簡単な操作ができるラジオ、
おじいちゃんの好きそうな本や雑誌で溢れていた。
何度も通ったのだ。母は。
元気になってもらおう、楽しませよう、と願いながら。

6月末にバラナシから出した手紙。
枕元に置かれていた手紙。
7月半ばには届いたという報告をもらった手紙。
手紙が届いてから、たったの2週間。
早すぎる、と思った。間に合わなかった。

飛行気乗りだったおじいちゃん。
小学生の頃一緒に旅行をしたおいじいちゃん。
戦争中、追撃されて海に落ち、上下ひっくり返った機体から出るときに、
ハッと気付いて、ドアノブを上に押し上げたら開いて脱出できた、と語った。
その後、陸に上がってから吸った一本の煙草がうまかった。当時、19歳。
夜の大山を目標に見ながら飛行訓練をした話。
話を聞いているだけで、
夜、大山、飛行機、自分、が想像でき、気持ちが広がった。
上海で飛んだときに、揚子江がとてつもなく広かったと言った。
広すぎて、海と河口の境目が分からないくらいだった。
上海には「ガーデンブリッジ」があると、僕が中国に行く前に教えてくれた。
実際に上海に訪れると、
「ガーデンブリッジ」は周囲の発展から取り残されたように残っていた。
上海語で「煙草を下さい」という言い方を覚えていた。
北京語とは違う言い方だったので、上海語だと思った。
60年前の上海のことをよく覚えていた。若いときを過ごしたからなんだろう。
中国に行く前には、あまり深入りするなよ、と忠告された。

小学生の頃、一緒に旅行したときに、
岡山辺りの電車の中で、老人に席を譲らないとね、と大声で喋って、
席に座っていた若い女性が泣いてしまった。
遊園地に行き、ジェットコースターに乗ったとき、
全然なんともない、と平然としていた。
飛行気乗りだったから当然か。

妹二人と自分とおじいちゃんの4人で山陰、山口、愛媛まで車で旅行をした。
免許取立てだった僕が運転をし、初日に米子まで行った。
助手席から、運転の仕方を口うるさく言ってくるおじいちゃんが、
その時は疎ましかった。
山口の湯田温泉に泊まった時、他お客さんが、
きれいな東京弁だと感心していた。

バスタオルを片手に甲子園を見ながら、おじいちゃんはよく涙していた、と母に聞いた。

朝の遅い僕がまだ布団の中で寝ているとき、
おじいちゃんはよく足を揉んでくれた。昔はつばを眉毛に付けることもした。
うっとうしいとも思ったけど、今はとても懐かしい。
そんな仕草もずいぶん前に已んでしまった。
あの頃は、おじいちゃんは元気だった。

おじいちゃんは達筆だった。
僕が小学生の頃から持っているグローブには、
僕の名前が大きく立派な毛筆で書かれている。
今日、老人ホームの部屋に残されたノートの文字を見ると、揺れていた。
2年ほど前からだろうか。ちょくちょく送ってくれた手紙の文字が揺れ始めたのは。
少しずつ、少しずつ、自由が利かなくなってしまったのだ。
おじいちゃんは、そんな自分を許せなかっただろう。
何でも完璧にそつなくこなすことをモットーにしていた。
幼い頃「早めし、早ぐそ、早仕度」とよく言われたものだった。

僕らがロンドンにいる時、僕は書く手紙ごとに、
おじいちゃんにマンガ本を送って欲しいとねだった。
キャプテン翼やキン肉マンの新刊が出る度に送ってもらった。
日本に一時帰国するたびに、和室の柱に背丈を書いてくれた。
あの頃、自分の成長を知る尺度はあの柱だけだった。

むかし一学期分だけ、我孫子の学校に通った。
我孫子の家に寝泊りして、歩いて通った。
その頃は、おじいちゃんと生活をしていた。
その頃は、おばあちゃんも家にいた。

僕が10歳のとき、家族はイギリスから日本に帰国した。
1989年のこと。
程なくして、我孫子のおばあちゃんは亡くなった。
もう20年も前の4月のことだ。

おじいちゃんは、おばあちゃんと一緒によく旅行をしていた。
おばあちゃんが亡くなった後、僕と一緒によく旅行をした。
四国や九州へ行った。
関東への帰り道、行きたいところはあるか?と聞かれた。
あまり思い付かなかったので、鈴鹿と答えた。
二人で、鈴鹿の伊藤のおばさんのところを訪ねた。
焼香を終えた仏壇の前で、おじいちゃんとおばさんが話していた。
男の人はなかなか忘れられないんですよね、と。
どちらが言ったのかは、忘れた。でも、二人とも合点がいっていた。
そう、だったのだろう。

おばあちゃんが亡くなって、20年。
それから、おじいちゃんは何を求めていたのだろう?
今日訪れた老人ホームの部屋に残された財布の中、
旧い白黒の写真が2枚入っていた。
一枚は、双子である母と伯父の子供の頃が写っている。
もう一枚は、おばあちゃんと子供の頃の双子が写っている。
写真の角は擦り切れてしまっていた。
何年の間、そうやって離さず身に着けていたのだろうか。
何度、その写真を眺めたのだろうか。
一人で旅した金沢へも、その写真を持っていったのだろうか。
分からない。けど、
亡くなった後に見た、おじいちゃんの財布の中には、
その二枚の写真が収まっていた。





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