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三蔵法師も訪ねたという高昌故城 [in トゥルパン] ~廃墟マニア~

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広い、広い。ただただ、だだっ広い。
由緒の正しさ、では高昌の方が勝るかもしれないが、
見栄えとしては、交河故城の方が良いと感じた。
こちらはとにかく広すぎてスペースがあり過ぎるのだ。
しかし、周囲を囲む城壁は圧巻!
平遥古城ほどの広さがあるのでは?

いろいろ探検していたら、係りの人がバイクで飛んで来て
「そこは立入禁止だ」と注意された。
柵も何もないのに無茶なこと言うもんだ。
バイクで走ってる方が痛めてる気もするが・・・

廃墟指数 ★★★☆☆ ぐらい、かな。

ここ高昌にまつわる歴史自体は面白いのだけど・・・(後述)



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寺院跡。高昌には多い時には50余の寺院があったという。



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上記の中央の建物。側壁面には仏の画の跡がうっすら残っていた。



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同じく寺院跡にて、ドーム状の建物。これは修築されたものか。



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ロバ引きのおっちゃん。シーズン外のこの時期(2009年11月)は、暇そうだった。



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同じくロバ引きのおっちゃん。



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[メモ]
トゥルパンの人の顔付の多様さについては前にも書いたが、
高昌の歴史を見てみると、イスラム化以前の当地へ
どのような契機で様々な人の集団が流入してきたかが分かる。
以下、高昌の歴史について概略を。


高昌故城は、紀元前1世紀に漢の屯田基地にはじまり、
14世紀初め、戦火に遭い崩壊したという。

漢代の屯田にはじまった高昌には、
漢滅亡後の長い戦乱を避け、漢人たちが移り住んだ。
やがて長い戦乱は五胡十六国時代[北涼]の滅亡をもって一段落を迎えるわけだが、
高昌国は、ほかならぬその[北涼]の王族が逃れ来て、
それまで交河故城を拠点にしていた車師国を滅ぼして建てられた。
なお北涼は匈奴の一支族と見られている。
 
トゥルパンを東端とするタリム盆地周辺の住民は、
10世紀頃までの印欧語系トカラ語を使うアーリア系や
イラン系言語を使うソグド人が主で、
宗教も仏教やゾロアスター教が行われていた、という。
そうした土地にありながら、
高昌では最初の屯田以来、漢人が住み着き、統治していたので、
かなりの程度まで、異なる文化が混在していたようだ。
(ウルムチの博物館にはこの地区から出土した餃子や月餅の化石もあった)

当時を描いた資料には、
「官制は中国風。服飾は男子は胡法により、婦人は中国と同じである。
 文字もまた中国と同じながら、胡書(イラン文字)を兼用する。
 学校では、論語等の書を教授している。
 よく習熟しているが、言語は胡語(トハラ語系?)で読んでいる。
 また当地からは、木綿、毛織物、葡萄、良馬などが献上された。」
  (『周書』異域伝、『梁書』諸夷伝の記述。 長澤和俊『シルクロード』より抜粋)
とある。

高昌国は、柔然、高車、西突厥など北方遊牧民の影響下で栄え、
時には隋、唐へも入貢するという、絶妙なバランス感覚で生き延びた。
三蔵法師・玄奘がインドへの旅の途中ここを訪れたのも、この頃。628年。
当時の高昌は、寺院50余と仏教が栄えていた様子も伝えられる。
玄奘は、高昌国王によって西突厥側に引き継がれることで、
身の安全を保障され、旅を続けることが出来た。

  
高昌国は、西突厥と連合していたため唐が西突厥を攻めた際、640年に滅びる。
唐はここに安西都護府を置き、西域経営の拠点としたが、
ここを通じた交易が、国際都市・長安の繁栄をもたらす。

唐の国力が衰え、西域から退いた後は、
天山ウイグル[回鶻]王国が当地を支配することになる。
9世紀から13世紀までこと。
もとイラン系住民と漢人の混住地帯だった当地は、
この時期、テュルク化が進んだようだ。

ウイグルたちは現地の仏教・マニ教・景教などを受容し、
トハラ語や漢文、チベット文で書かれていた仏典等をウイグル文字に翻訳した。
トゥルファン出土のウイグル文書の大部分は、この天山ウイグル時代のものだという。
なお、この時代、ウイグル文字がソグド文字を借用して作られたが、
これは後、モンゴル文字、満洲文字の基ともなっている。

のち、ウイグルは、チンギズ・ハーンの台頭を見て、イの一番で協力した。
そのため、ウイグル王家はモンゴル帝国内で筆頭家老のような地位に付き、
多くのウイグル人たちが、優れた経済感覚を活かし、帝国の経営を担った。

しかし、クビライが帝位に就き大元と改めたころ、モンゴル帝国は分裂混乱を迎える。
特に中央アジアではチャガタイ・ハン国が独立し、元朝の領土を攻めた。
高昌は、元と対立するこれらの勢力により奪われ、崩壊する。
ウイグル王家は多くの部衆を連れて元朝内の甘粛・永昌へと遷った[1283年]。
 
現在のウイグル人は、回鶻(ウイグル)帝国から名を受けている。
とはいえ、両者の間に直接的な連続性を見出すのは微妙か。



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